孫休
孫 休(そん きゅう、235年 - 264年)は、三国時代の呉の第3代皇帝(在位:258年 - 264年)。字は子烈(しれつ)[1]。
生涯[編集]
父は孫権で6男[1]。母は王氏であるが孫和の母の大懿皇后とは別人で[1]敬懐皇后である。第2代皇帝の孫亮は異母弟。13歳の時に中書郎の謝慈と郎中の盛沖から学問を受け、252年に琅邪王に封じられる[1]。父の崩御で異母弟の孫亮が即位すると、孫亮から圧力を受けて各地を転々とした[1]。ある時、孫休は尻尾の無い龍に乗って昇天する夢を見たという[1]。258年、孫亮が孫綝により廃帝にされると新帝として擁立されるが、孫休は孫綝を排除するため張布や丁奉らとクーデター計画を画策し、同年12月に参内してきた孫綝を捕縛して処刑し[1]、さらに2年前に死去した孫峻の墓を暴いて名誉を剥奪し、諸葛恪の名誉を回復して自らの実権を回復した(太平の変)。
孫休は教育を重視した詔を下して農政改革を行なうなど名君の資質を見せたが、彼は古典研究など文化面に熱心だった反面、政治は余り熱心ではなかったという。また『呉録』によると前皇帝の孫亮を260年に孫休が毒殺したとする説もある。孫亮の死去に関しては自殺説もあり、孫休は護送役人を処刑したという。
263年、魏の司馬昭により蜀が攻められると丁奉を援軍として派遣するが蜀は滅亡したため(蜀滅亡)、軍事行動を中止して魏に備えた[1]。264年に崩御[1]。享年30。
晩年の孫休は国政を丞相の濮陽興と左将軍の張布に任せており、その中でも濮陽興を厚く信任していた。崩御の直前、孫休は濮陽興を呼んで長男の孫𩅦を後継者にするよう託したが、濮陽興は遺嘱を裏切って鳥程侯の孫皓を新帝とした。
『三国志演義』では第113回から登場し、孫綝の殺害などが史実どおりに描かれている。ただし孫休の死は司馬炎が魏から簒奪して西晋を建国したことで心労の余り病気になってのことで、時期が1年ずれている。