呂蒙

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呂 蒙(りょ もう、178年 - 219年)は、中国後漢末期の武将で孫策孫権に仕えた。子明(しめい)[1][2]。姉が少なくとも1人おり、その姉婿に鄧当。子に呂琮呂覇呂睦関羽を討ち取った名将として有名である。

生涯[編集]

野心満々の少年時代[編集]

豫州汝南富陂県(安徽省阜南県)の出身[1][2]

子供の頃に姉婿の鄧当を頼って呉にやって来た[1]。鄧当は孫策配下の武将で、孫策の命令で山越の討伐を命じられたが、この時鄧当の軍勢に子供の呂蒙がこっそりと付いて行った[1]。従軍の途中で鄧当は呂蒙がいるのを知って驚き叱りつけて帰るように命じたが、呂蒙は従わなかったのでやむなく従軍させた[1]。帰還すると鄧当は呂蒙の母親(鄧当にとっては義母)にこの事を告げた[1]。母親は息子の無謀な行動に激怒して処罰しようとしたが、呂蒙は「貧しく賤しい境遇にいつまでも留まっているわけにはいきません。何か手柄を立てる事ができれば高貴を得る事ができます。虎穴を探らざれば虎子を得ずというではありませんか、と自らの野心を明かした[1]

ところが呂蒙の一件を聞きつけた鄧当の部下が上司である鄧当に対して悪口を言った[1]。呂蒙はそれを知ると悪口を言った男を一刀の下に斬り殺した[1]。少年の行為とはいえ許されることではないが、有力者の口添えがあって罪一等を減じられる[1]。この気性の激しさを孫策が聞きつけて家臣に取り立てた[1][2]

名将への成長[編集]

鄧当がしばらくして亡くなると、張昭の推薦もあってその兵力を呂蒙が継承し、別部司馬に任じられた[3][2]。孫策が死ぬと跡を継いだ孫権に仕えた。孫権は兵力の整理統合の必要を感じていたが、呂蒙はそれをいち早く見抜いてこっそり借金して自分の軍団を赤備えで統一した[3][2]。孫権の閲兵式の日、整列した軍団の中で呂蒙の赤備えはひときわ目立ち、またよく訓練されていたので孫権は大いに満足して呂蒙の軍団を増員した[3][2]。呂蒙は丹陽討伐や黄祖討伐、赤壁の戦い南郡の戦いなどに参加して武功を立てた[2]

210年周瑜が死去し、魯粛が後任の呉を支える社稷の重臣となる。この際、魯粛は赴任先に赴く前に呂蒙の駐在している所を尋ねた[3]。これまで魯粛は呂蒙を武勇だけの猛将としか思っていなかった[3]。ところが呂蒙と会って議論を交わすうち、魯粛は自らの認識が誤っている事に気が付いた。呂蒙の学識も見識も、それまでと大きく異なり並の物では無かった。この時、魯粛は呂蒙に「呉下の阿蒙にあらず」(もう呉の蒙ちゃんではないんだな)と感嘆の言葉を述べ、それに対して呂蒙も魯粛に「士、別れて三日、括目してあい侍すべし」(士たる者、三日会わなければ、よくよく眼をこすって相手を見なければならない)と返したのは、有名なエピソードとして知られている[3][4][2]

実はそれまで武勇一辺倒の呂蒙を成長させるきっかけを作ったのは、主君の孫権だった[4]。孫権も魯粛のように呂蒙が武勇だけの猛将であるのを見抜いていた。そこで「重要な地位を占める身になったのだから、きちんと学問をして自己啓発に努めなければなるまい」と呂蒙に学問を勧めた[4]。呂蒙は「それはわかっております。しかし何分も陣中の生活で多忙に追われ、読書にまで手が回りかねるのが実情なのです」と返答したが孫権は「何も専門家になれというのではない。一通りの事を把握して過去の例を見ておいてほしいのだ。多忙と言ったところで私ほどではあるまい。兵法書では「孫子」や「六韜」、史書では「左伝」「国語」「史記」などの三史を読むがよい」と返した[4]。主君にここまで言われると呂蒙に返す言葉は無く、呂蒙は学問を始めた。実に熱心で倦まずたゆまず続け、読破した書物は昔の学者も及ばぬほど大変な努力をしたという[4][5][2]

関羽を葬る[編集]

217年、魯粛が死去し、呂蒙は後任の呉の社稷の重臣となる。魯粛は劉備との関係を重視する対穏健派であったが、呂蒙は曹操との関係を強めて劉備から荊州奪取を第一とする対蜀強硬派であった。呂蒙は表向き病気を理由に関羽を持ち上げてひたすらへりくだった。さらに無名の陸遜を起用して関羽の油断を誘った。関羽は呂蒙の謀略に嵌り、すっかり呉に対して油断してしまい、曹操の部下の曹仁呂常が守る襄陽に目を向けるようになった[5]

関羽は219年に曹仁らが守る襄陽に対して北伐を開始する。関羽が留守の荊州を守るのは士仁麋芳で、この両将は関羽と不仲だった[6]。呂蒙はこの両将に接触して調略する。ただしこの時、まだ孫権と劉備の間には同盟関係があった。そのため呂蒙は攻撃準備を整えながらひたすら口実を待った。そして事件が起こる。関羽が于禁の軍勢を破って多くの捕虜を得た結果、逆に食料調達に悩まされるようになった。しかも日頃から不仲だった麋芳らが兵糧の輸送を故意に怠りだした。このため関羽はやむなく蜀と呉の国境付近にあった兵糧備蓄所の食料を無断借用したのだ[6]。これを呂蒙は関羽の同盟破棄と解釈して口実とし、荊州への進軍を開始した。呂蒙は商船を装って兵士を船底に隠して長江から江陵に向かった。関羽は万一呉に攻められた際に備えて長江沿岸に監視所を張り巡らしていたが、呂蒙はそれらを全て偽装船団で潰しながら遡行した[6]。この結果、江陵や公安は無血開城となった。さらに呂蒙は陸遜を西に赴かせて四川からの援軍に備えさせ、また民心を得るために北伐に出征している関羽軍の兵士の家族に手厚い保護を加えて優遇した[6][2]

こうなると関羽軍はどうしようもなくなり、北から曹操軍、南から孫権軍に挟撃されて一気に追い詰められ、麦城に孤立した。呂蒙は関羽が逃げる事を悟って網を張り、その網にかかった関羽は捕縛されて斬首された[2]

関羽討伐の功績により呂蒙は南郡太守・孱陵侯に封じられたが、間もなく重病に倒れた。孫権は最善の治療を加えるように指示をし[6]、呂蒙を心配させないように壁に穴を開けて容態を見舞った[2]。しかし呂蒙は関羽の後を追うように死去した[6][2]。享年42[6][2]

孫権は呂蒙の死を知ると大いに悲しみ、しばらくは食欲も無かったという[2]。呂蒙はそれまで孫権に与えられた褒美の全てを家に保管してあり、自分の死後にそれらを全て孫権に返還するように遺言したという[2]

人物像[編集]

陳寿は呂蒙のことを「勇敢であると共に、ちゃんとした策略を立てることができ、軍略というものがはっきりとわかっていた。関羽を捕虜にしたことが、彼の手腕が最もよく発揮された例である。初めは無思慮なことをし、みだりに人を殺したりもしたが、やがて自分自身を支える事ができるようになり、国士としての器量を備え、単に武将たるだけに留まらなかったのである」と高い評価を与えている。

だが蜀の英雄であり後世には神格化された関羽を討ち取る殊勲者となったため、小説『三国志演義』では不当なくらい著しく貶められ辱められている。関羽の死の直後に後を追うように死んだ事も第77回で「関羽怨霊説」として扱われる事になり、最後は関羽の亡霊に呪い殺される役目を演じている。NHKの『人形劇・三国志』では荊州の領民を惨殺した上、それを止めさせるために投降した関羽を騙し討ちにしたひどい老将と化した「呂蒙と呼ばれる誰か」の醜態に、創作とはいえひどすぎると小説家田中芳樹が激怒する事態となった。

実際は関羽を討ってから直後の死は病死で、関羽討伐以前から既に病を得ていたものと推測されている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 伴野朗『英傑たちの三国志』、P129
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p 小出『三国志武将事典』P310
  3. a b c d e f 伴野朗『英傑たちの三国志』、P130
  4. a b c d e 伴野朗『英傑たちの三国志』、P131
  5. a b 伴野朗『英傑たちの三国志』、P132
  6. a b c d e f g 伴野朗『英傑たちの三国志』、P133

呂蒙が登場する作品[編集]

アニメ
テレビドラマ

参考文献[編集]