孫翊
孫 翊(そん よく、184年 - 204年)は、中国の後漢末期の武将。孫堅の3男。兄に孫策、孫権。弟に孫匡、孫朗。字は叔弼(しゅくひつ)[1]。子に孫松。
生涯[編集]
長兄の孫策に似て武勇に優れ剛毅果断であったため、200年の孫策の死後、一部の重臣から跡継ぎにまで目されたが、次兄の孫権が跡を継ぐこととなった[1]。203年、偏将軍・丹陽郡の太守に任じられた[1]。
204年、元盛憲配下の媯覧と戴員を孫翊は重用していたが、2人が辺洪と親交を結んだことを叱責したため、媯覽・戴員と辺洪は手を組み、孫権が出陣したのを機に孫翊暗殺を計画[1]。妻の徐氏は占いが凶と出たので宴会を開く事を反対していたが、孫翊は聞かずに宴会を開き、酒を飲んで酔っ払い無防備になっているところを辺洪によって殺害された[1]。武勇に優れていたことをいいことに傲慢な振る舞いが多く、特に酒に酔うと粗暴な振る舞いが多かったため恨まれていたために殺されたという[1]。
死後、妻の徐氏が下手人の辺洪に賞金を掛けた[1]。翌日に辺洪が捕らえられると、媯覧と戴員は辺洪に罪をかぶせて殺した[1]。周囲は媯覧と戴員が辺洪と共謀していたことを知っていたが咎める力はなかった。さらに媯覧と戴員は孫翊の愛妾から遂には徐氏にまで手を出そうとしたため、徐氏は「喪が明けるまでお待ち下さい」と時間を作った[1]。その間に孫翊とそれほど親密ではなかった孫河が2人を叱責し、媯覽と戴員は後難を恐れ孫河を殺し、曹操配下の揚州刺史・劉馥に内応の使者を送った。しかし、計画が実行される前に、徐氏と元孫翊配下の徐元・孫高・傅嬰らによって2人は殺され、見事仇討ちを果たした徐氏はその貞烈を称えられた[1]。
『三国志演義』では第7回で登場し、第29回で孫策の遺言を受けている。第38回で暗殺されて史実通りに妻の徐氏が仇討ちを果たした。