徐琨
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徐 琨(じょ こん、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将。父は徐真。母は孫堅の妹。子に徐矯・徐祚・徐夫人(陸尚の妻、後に孫権の妻)。
生涯[編集]
揚州呉郡富春県の出身[1]。孫堅の外甥に当たる[2]。若い頃は郡や州の役所で働いた[1]。孫堅が挙兵するとそれに従い、軍功により偏将軍に任命される[1]。
192年に孫堅が戦死すると従兄弟の孫策に仕え、孫策の江東平定でも軍功を立てた[1]。しかし丹陽郡太守の座をめぐって袁術が派遣した袁胤と戦い、後に呉景が丹陽郡太守になったため、徐琨は督軍中郎将に任命されている[1]。以後は平虜将軍・広徳侯となるが、孫策の黄祖攻めで流れ矢に当たって戦死した[1]。黄祖攻めは孫策の時代に何度か行なわれているが、199年が没年ではないかと推測される。