孫奮
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孫 奮(そん ふん、? - 270年)は、中国の三国時代の呉の皇族。字は子揚(しよう)[1]。
生涯[編集]
父は孫権で5男[1]。母は仲姫[1]。兄に孫登・孫慮・孫和・孫覇。弟に孫休(第3代皇帝)、孫亮(第2代皇帝)。妻は袁燿の娘[2](袁術の孫娘)。
252年に斉王に封じられる[1]。253年に諸葛恪が孫峻により誅殺された建興の変の際、これに乗じて首都の建業に進出しようと画策し、諫言した謝慈らを殺害した[1]。このため、皇籍を剥奪されて庶人に落とされる[1]。
258年に弟の孫亮の恩赦を受けて皇籍に復帰し、章安侯に封じられる[1]。270年に甥の孫皓の左夫人である王氏が死去した際、孫皓は悲しみの余りしばらく姿を見せず、そのため新帝に孫奮か孫奉が即位するという風聞が流れ、激怒した孫皓によって一族皆殺しにされてしまった[1]。
『三国志演義』には登場しない。