江尻城
江尻城(えじりじょう)とは、現在の静岡県静岡市清水区江尻町にかつて存在した日本の城である。別名を小芝城、於芝城という[1]。
概要[編集]
永禄11年(1568年)12月に甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を行なった結果、駿河国を支配していた今川氏真は没落して遠江国掛川城に逃れた。これにより甲駿相三国同盟が破綻し、相模国の北条氏政は武田信玄に対して敵対を明らかにし、今川氏を助けるために駿河も出兵する。対する信玄は補給基地や補給路の確保などから永禄12年(1569年)1月に江尻城の築城を武田四天王のひとりである馬場信春の縄張りと、駿河先方衆の今福和泉守の奉行によって開始した[1][2]。このため江尻城は急造なものであり、信玄は一族の武田信光を城将に任命して数百人で守備させた。同年の4月19日に信玄は江尻城城番として全文15か条からなる掟書を出し、城兵の守備心得について細部まで規定した城法を定めている[2]。
元亀元年(1570年)2月下旬、信玄は再度江尻城の普請を命じ、城将に新たに武田四天王最強といわれる山県昌景を任命した。しかし山県は信玄没後の天正3年(1575年)5月に発生した長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍の前に戦死。そのため武田勝頼は親族衆の穴山信君を新たな城将に任命した。穴山は天正6年(1578年)から江尻城の大改築に着手し、防備を一段と強化した。さらに甲斐国と江尻を結ぶ連絡網の伝馬の整備、城下町の整備などを行なって駿河の押さえに任命された[2]。
長篠敗戦後、武田家は徳川家康の攻勢に押されるようになり、天正9年(1581年)3月22日に遠江国高天神城が落とされてから衰退がさらに顕著になる。天正10年(1582年)2月に織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、2月25日に徳川の家臣の長坂信政を使者として迎えた穴山は武田を見限り、3月に家康の軍門に降した。そして穴山は道案内役として家康を駿河河内口から甲斐の市川口へ案内した。武田勝頼が自害して武田家が滅亡した後、穴山は織田信長から所領安堵を受けたが、本能寺の変の際に信長が死去した際、穴山も家康と共に畿内にあり、穴山は家康と別行動をとって地侍の反乱にあって山城国宇治田原で落命した[2]。穴山氏の家督は遺児の勝千代(穴山信治)が跡を継いで家康に仕えたが、勝千代は天正15年(1587年)6月に早世し、ここに穴山氏は断絶した[2]。
天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされ、家康が関東に移封されると、駿河には秀吉の家臣・中村一氏が入封し、江尻城には家臣の横田隼人が入城する。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで家康が政権を掌握し、一氏の子・中村一忠が伯耆国米子藩に加増移封された後、家康の家臣の内藤信成が慶長6年(1601年)に入封された際、この城には価値や必要性が無いとして廃城となった[2][3]。
現在、城跡は市街地となっており遺構は全く伝えられていないが、大正時代までは茶畑の間に堀跡などが明瞭に残っていたと伝わり、小芝神社のあたりが江尻城の三の丸であったといわれている。城関係の地名としては本丸・2の丸・3の丸・大手・硫黄土屋・櫓・近習小路・大(代)官小路・御陣屋跡などがあり、城下町の名残として鋳物師町・鍛冶町・紺屋町・魚町などがとどめられている[3]。