濃姫

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帰蝶から転送)
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濃姫(のうひめ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性美濃国戦国大名である斎藤道三(秀龍)の娘で、政略結婚尾張国の戦国大名・織田信長に嫁いだ。通説では信長の正室とされる。信頼できる資料はほとんど無く、小説やドラマでの扱いは全て創作である。後述するように名前や呼称も不明だが、便宜上、濃姫として記述する。

略歴[編集]

父は斎藤道三。母は明智光継の娘・小見の方とされている。一般的に知られる名前の濃姫は「美濃から来た娘」という意味で近年になって付けられたものであり、存命当時に使用されていたわけではない。『美濃国諸旧記』においては「帰蝶」(きちょう)と名付けられているが、この史料は後代の江戸時代に成立したものであり、本名かどうか疑われている。なお、帰蝶とは几帳が転じたものとする説がある。

一説に最初は美濃の旧守護大名である土岐氏の一族・土岐頼純に嫁いだとされているが詳細は不明。

天文17年(1548年11月今川義元三河侵攻で東に今川氏という強敵を抱えていた織田信秀は、嫡子の信長と道三の娘・濃姫を政略結婚させることを画策し、結果的に織田氏斎藤氏婚姻同盟が成立した。天文18年(1549年2月24日、濃姫は信長に嫁いだ。

弘治2年4月20日1556年5月28日)に父の道三が長良川の戦いで兄・斎藤義龍と内乱で戦って敗死した際、濃姫は父の供養のために岐阜常在寺に父の肖像画を収めたという(『美濃明細記』)。

これ以降の濃姫の行方は不明である。そのため、これ以降の濃姫に関しては諸説がある。

  • 道三の死で政略結婚の価値が無くなったため、信長から離縁されて美濃に早い段階で帰された。
  • 若くして死去(早世)した。
  • 信長関係の当時の史料で「信長本妻」「安土殿」「大方殿様」「御台所」「北の方」とする記録があり、これが濃姫を指すとされ、信長から正室として丁重に扱われた。
  • 当時としてはかなりの長寿を保ち、徳川家康の時代である慶長17年(1612年7月9日に78歳で死去した。これは京都大徳寺にある信長一族の墓所の中に「養華」という人物の五輪塔が残されており、これが安土山総見寺の織田家過去帳にある「養華院殿」という「信長公御台」を示す戒名と一致しているためである。
  • 信長の嫡子・信忠養子にしていることから、天正年間まで存命していた可能性がある。なお、記録上で信長と濃姫の間の子は確認できない。
  • 言継卿記』において稲葉山城が陥落した際、信長が斎藤家に伝わる著名な壷に固執したので、濃姫が信長に「(壷を得ることは)無理なものは無理なものです」と諌めたという。これが事実なら永禄10年(1567年)の時点では存命で、正室として健在だったことになる。

小説テレビドラマなどでは、信長の正室としてよく登場し、本能寺の変まで信長を支えた愛妻として描かれていることが多いが、実際の濃姫に関しては不明な点が多いのが実情である。

濃姫が登場する作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

参考文献[編集]

  • 『美濃国諸旧記』
  • 『美濃明細記』
  • 武功夜話
  • 『言継卿記』

外部リンク[編集]