上ノ国勝山館
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上ノ国勝山館
別名 | 勝山館、脇館、和喜館 |
城地種類 | 山城 |
縄張 | 連郭式 |
城郭年代 | 中世 |
築城者 | 蠣崎信広 |
主要城主 | 蠣崎信広〜慶広 |
近年の復元や整備 | 空堀・土塁・掘立柱建物跡・柵・橋・道・側溝・井戸 |
天守の現状 | 天守存在せず |
日本・続日本100名城スタンプ設置場所 | 勝山館跡ガイダンス施設 |
上ノ国勝山館(かみのくにかつやまだて(かん))とは、かつて蝦夷地上ノ国(現北海道檜山郡上ノ国町)に存在した日本の城館である。中世北海道学の中心地として著名である。
概要[編集]
文明5年(1473年)頃、松前藩主の家系にも繋がる蠣崎氏が本拠地として築城したとされる。信広の嫡男である光広は永正11年(1514年)頃に拠点を松前城に移し、勝山館は支城の位置づけとして存続する。豊臣秀吉の天下統一後は城下町の建設が活発的に進められ、館が慶長5年(1600年)前後に廃館となってからも城下町は繁栄した。
構造[編集]
夷王山の中腹に平らだった丘陵地を利用して築かれており、尾根続きの南後方を薬研堀造りの二重堀切で切断している。中世城郭の山城にありがちな典型的山城とも思われてしまうことがあるが、何より凄いのが曲輪と土塁の防御体制であり、柵・堀切・狭い虎口の構えが主郭部に見られ、堅固な中世山城であった事がわかる。