鈴木貫太郎

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鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、慶応3年12月24日1868年1月18日) - 昭和23年(1948年4月17日)は、日本海軍軍人政治家太平洋戦争終戦時の内閣総理大臣で第42代首相。階級栄典海軍大将従一位勲一等功三級男爵。海軍士官として海軍次官連合艦隊司令長官海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)、外務大臣鈴木貫太郎内閣)、大東亜大臣(第3代)も務めた。血液型はO型。

生涯[編集]

生まれと若い頃[編集]

幕末大政奉還が行われた年末に8人兄弟の長男として生まれた。父は鈴木由哲といい、江戸幕府譜代大名である関宿藩主・久世氏代官であった。

鈴木の自伝[1]によると、幼い頃の鈴木は大の泣き虫であり、大きな声で泣いたので周囲から『泣き貫』と渾名を付けられたという。明治17年(1884年)に16歳で東京築地海軍兵学校に入学する。明治27年(1894年)から日清戦争が始まると、当時鈴木は水雷艇艇長で大尉の地位にあったため参加し、威海衛の戦いでは敵から50メートルまで近づいてから魚雷を発射するという命知らずの戦法を見せて[2]、戦友たちから命知らずの鬼、すなわち『鬼貫』と呼ばれるようになったという。

29歳の時に結婚し、3人の子供に恵まれる。

明治37年(1904年)から日露戦争が始まると、第4駆逐隊司令の海軍中佐として日本海海戦を戦った。

侍従長と二・二六事件[編集]

大正4年(1915年)、前妻を病気で失っていた鈴木は、昭和天皇の養育係を務めていた足立たか(鈴木たか)を後妻として迎えることになった。これは当時の侍従長であった木戸孝正[3]の仲介によるものであったという。当時海軍少将にまで昇進していた貫太郎は47歳で、たかは32歳であった。

大正3年(1914年)から第1次世界大戦が始まると、日英同盟を理由にして日本ドイツ帝国宣戦布告し、アジアにおけるドイツの勢力駆逐に力を注いだが、この際は海軍次官として日本海軍の軍備増強に全力を注いだ鈴木は、大正5年(1916年)に勲一等旭日大綬章を授かる。大正6年(1917年)には海軍中将に昇進した。

大正10年(1921年)に当時皇太子だった昭和天皇が2週間の巡察旅行を鈴木が艦長を務める艦隊で過ごした。この時のことを自伝で鈴木は「光栄な幾日かをお伴に過ごしました」と記している。これが鈴木と昭和天皇の初対面だった。

時代が昭和に変わり、鈴木は海軍大将に任命された後、昭和4年(1929年)に海軍の現役最高峰の役職であるといってもよい海軍軍令部長の地位にあった鈴木は、昭和天皇の側近である侍従長に就任するよう推挙を受ける。しかし鈴木は自らが軍人であることから当初はこれを固辞していた。だが、周囲から何度も口説かれ、昭和天皇が鈴木に厚い信任を寄せていたこともあり、承諾せざるを得なくなったという。

昭和6年(1931年)に満州事変が勃発する。これは関東軍謀略によるもので昭和天皇の裁可を受けての軍事行動では無かったため、慌てた日本陸軍上層部は昭和天皇に軍を出動させる裁可を求めるための上奏を行うために拝謁を求めたが、当時侍従長の地位にあった鈴木はこの拝謁を許さずに拒否した。これは昭和天皇が戦線不拡大の方針を持っていたことから、鈴木は拒否して陸軍に対して異を唱えたのだという。だがこのため、鈴木は陸軍の憤激を買うことになり、君側の奸として恨まれてゆくようになった。

昭和11年(1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデターが発生し、首相の岡田啓介が襲われたのをはじめ、内相斎藤実蔵相高橋是清教育総監渡辺錠太郎らが暗殺され、鈴木も青年将校による襲撃を受けた。この時、鈴木と共に居合わせた妻のたかの証言によると、時刻は午前4時頃で10数名の兵隊が土足で自宅に押し寄せて来た。鈴木は「何事があってこんな騒ぎをしているのか」と将校らに尋ねるが、将校らは「(鈴木)閣下でありますか?」とだけ尋ね、鈴木は「ああ、そうだ」と答えた。鈴木は将校らに「話があるなら聞こう」と言ったが、将校は「暇(時間)が無いから撃ちます」と言って拳銃を鈴木に向けて発砲したという。銃弾は鈴木の眉間に一発、肩に一発、心臓の右のほうへが一発、横腹に一発と計4発も当たったという。将校らは「とどめ、とどめ」と叫びながら鈴木にとどめを刺そうとしたが、妻のたかがとどめだけはやめてほしいと身を挺して庇い[4]、襲撃していた将校の一人で鈴木と親交のあった安藤輝三大尉が「とどめだけは残酷だからよせ」と仲間に指示し、「みんな閣下に対して敬礼をしろ」と命令したので、襲撃した将校らは座り込んで鈴木に対して敬礼をして去っていったという。

将校らが去った後、たかは急いで出血の激しい鈴木の止血を行なおうとした。医師もやがて駆けつけるが、その医師が流れ出た血で滑って転倒してしまうほどで、また鈴木の年齢が68歳と当時は非常に高齢だったこともあり、脈も一時は絶えたという。しかし手早い処置もあり、鈴木は一命を取りとめた。

首相と終戦[編集]

昭和11年(1936年)11月までに重傷だった肉体は回復した鈴木であったが、既に68歳という高齢ということもあり、7年間務めあげた侍従長の職を依願して辞職した。

昭和16年(1941年12月から太平洋戦争が始まるが、最初こそ優勢だったものの次第に圧倒的な物量の前に押される一方になった日本の敗色は色濃くなり、昭和20年(1945年)には日本の敗戦は避けられない状況になっていた。4月、鈴木貫太郎に対して内閣総理大臣への就任が打診された。しかし鈴木は当時既に77歳という過去に前例の無い高齢であったことや[5]、身体に不自由があったことや「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があったため、最初は拒否したという。当時、侍従長の藤田尚徳[6]の記録である『侍従長の回想』によると、「この重大な時にあたって、もう他に人はいない。頼むからどうか、曲げて承知してもらいたい」と昭和天皇直々の要請があり、鈴木はようやく内閣総理大臣就任を承諾したという。4月8日に首相就任会見を開いているが、その際に鈴木は「最後のご奉公」と言っている。

また、鈴木は「自分はバドリオになるぞ」と言っていたという。バドリオはベニート・ムッソリーニが失脚した後にイタリア王国連合軍に降伏させた首相で、日本ではそのために売国奴として蔑まれていた人物であった。鈴木は自らがバドリオに、つまり売国奴になってでも日本を終戦に導く覚悟を決意してこのようなことを言ったのだとされている。

4月12日アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが死去すると、その死去を悼むコメントを鈴木は発表した。ただし陸軍の暴発を抑えるため、陸軍に対しては徹底抗戦を叫んでいる。これは老子の「治大国若煮小鮮」を手本にしたものとされ、鈴木は腹心で同じく終戦工作に奔走していた内閣書記官長迫水久常にこの老子の言葉を送っている。

5月7日ナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏すると、残るは日本だけとなった。そして7月26日、連合軍は日本に対して無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表する。当時、鈴木はソ連を通じての連合軍との和平交渉に希望を寄せており、この宣言にソ連の署名が無かったことから宣言をひとまず静観して見守った。だが、この鈴木の態度を7月28日朝日新聞では「黙殺」と大きく取り上げたため、鈴木もやむなく「黙殺する」という公式見解を発表せざるを得なくなった、という。

アメリカのハリー・S・トルーマン大統領はこの鈴木の黙殺宣言をポツダム宣言の拒否と見なした、とされており、結果的に8月6日広島市原子爆弾を投下した[7]8月9日未明にはソ連が日ソ中立条約を破棄して満州国への侵攻を開始した。

広島市への原爆投下とソ連の対日参戦を受けて、鈴木は自伝によると「陛下の思召し(日本の和平)を実行に移すのは今だと思った」と語っている。8月9日午前10時30分、鈴木は緊急最高戦争指導者会議を開いた。出席者は鈴木の他は、海軍大臣米内光政、外務大臣の東郷重徳陸軍大臣阿南惟幾参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武らであった。だが、この会議はポツダム宣言の受け入れの条件で揉めに揉めた。鈴木・東郷・米内らは国体護持、つまり天皇の地位の保証のみを条件にしてポツダム宣言を受諾するべきだという意見であったのに対し、阿南・梅津・豊田らは国体護持の他に日本の占領は短期かつ小範囲で行なうこと、武装解除や戦争犯罪人の処罰は日本側で行なうことなどを条件にした意見を出して折り合いがつかなかったのである。この会議の最中に長崎市に原子爆弾が落とされた。

会議で折り合いがつかないことを見た鈴木は、昭和天皇の聖断という最後の切り札をとろうとした。鈴木は最高戦争指導会議で折り合いがつかないことをあらかじめ見越していたため、腹心の迫水に裏で密かに根回しをさせていた。鈴木は御前会議を開くこと、聖断の執行に関する手続きの不備が無いようにするため、法律上必要な陸軍と海軍の両総長の花押をもらうように指示した。そして午後10時、鈴木は最高戦争指導会議を休憩とし、今度は昭和天皇にも参加してもらっての御前会議を開くと宣言した。これを知った陸軍は「御本[8]ができていないではないか」と抗議する。だが鈴木は「最高戦争指導会議でも結論が出ないことを陛下に申し上げるのです」と述べて押し切ったという。

8月9日午後11時50分から御前会議が始まる。しかし会議から2時間が過ぎても結論は出なかったので、鈴木は立ち上がって昭和天皇に対し「事態は一刻の猶予も許しません。まことに異例で畏れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論といたしたく存じます」(『侍従長の回想』)と述べた。鈴木に促される形で昭和天皇は国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受け入れることに同意し、聖断を下したという。鈴木は聖断を受けると直ちに迫水に終戦の詔書を起草するように命じた。

だが、終戦に納得できない青年将校らによりクーデターが計画される。8月11日付の『機密終戦日誌』によると鈴木・迫水らはテロによって葬ろうとする計画し、8月13日付では少壮の軍人によりクーデターが真剣に計画されていた、聖断の変更をしてもらうなどとされている。また迫水も後に「この時は殺されることを覚悟していた。殺されれば終戦の詔勅は闇に葬られて対ソへの詔勅が出ていた」と語っている。

アメリカ側も原爆を落としたのにポツダム宣言を受け入れない日本に対してしびれを切らしており、「日本の皆様」と題した宣伝ビラを日本上空から撒くという手段に出る。これを知った昭和天皇は『昭和天皇独白録』で「このビラが軍隊一般の手に渡れば、クーデターの起こるのは必然である」と語ったという。

8月14日朝、鈴木は再び昭和天皇に御前会議の招集を願い出た。だが、この時には陸軍と海軍の両総長の花押が無かったため、開催が法律的にできなかった。しかし昭和天皇は鈴木の上奏を承諾して自ら御前会議を招集するという異例の行動に出た。午前11時過ぎから御前会議は始まり、天皇は終戦のために再度聖断を下した。こうして終戦することが正式に決定し、8月15日に終戦したのであった。終戦を迎えた時、天皇は鈴木に「ご苦労であった」と礼を述べ、「朕と肝胆相照らす鈴木だったからこのことができたのだ」と発言したという。

なお8月15日午前4時過ぎ、終戦に反対する青年将校らにより、東京都文京区千石にあった鈴木の私邸は焼き討ちを受け、鈴木も暗殺されかけたが、鈴木は事前に首相官邸から連絡を受けていたので家族全員で車に乗って逃走を図り、九死に一生を得たという(宮城事件)。8月17日、鈴木は内閣総理大臣を辞職。穏便に武装解除を実現するため皇族の東久邇宮稔彦王に後継を託した。

最晩年[編集]

戦後は公職から退くと故郷の千葉県野田市関宿に戻り、妻のたかと余生を過ごした。元首相であったにも関わらず気取らない性格で多くの者から慕われ、郷里の若者を集めて農業の研究会を立ち上げたりしたという。「貫太郎さん」と呼ばれて好々爺として人望は厚かった。

昭和23年(1948年)4月17日に死去。享年80。鈴木の遺体が荼毘に臥された際、その灰からは二・二六事件で被弾した弾丸が1発出てきたという。

辞世の言葉は「永遠の平和。永遠の平和」と2回繰り返して言ったという。また戒名は鈴木が生前に決めていたとされ、その中に「尽忠」と用いている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 鈴木貫太郎著、鈴木一編、時事通信社刊の『鈴木貫太郎・自伝』
  2. ほとんどの場合は自己の安全も考えて敵から300メートルの範囲で撃つのが常識だった。
  3. 木戸孝允の妹の子で、木戸幸一の実父。
  4. たか自身の証言によると、鈴木はまだこの時に生きていたので生きているうちに一言別れの言葉だけでも言いたかったのだという。
  5. 全く例が無いわけではなく、大隈重信(第2次)や犬養毅の例がある。
  6. 鈴木の後を継いだ百武三郎の後任の侍従長である。
  7. 鈴木の黙殺発言が原爆投下の一因とされている意見もあるが、アメリカは鈴木の黙殺発言のずっと前から原爆開発を進めており、この発言が逆に利用されただけ、とする意見もある。
  8. 御前会議のシナリオのようなもので、御前会議ではあらかじめ打ち合わせて発言することが決められていた。


先代:
小磯國昭
内閣総理大臣
42代:1945年
次代:
東久邇宮稔彦王