小磯国昭

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小磯 国昭(こいそ くにあき、明治13年(1880年3月22日 - 昭和25年(1950年11月3日)は、日本陸軍軍人政治家階級陸軍大将位階従二位勲等勲一等功級功二級國昭とも表記される(総理在職:昭和19年(1944年)7月22日 - 昭和20年(1945年)4月7日)。

陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣米内内閣拓務大臣朝鮮総督(第9代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として内閣総理大臣に就任し、小磯内閣を組閣する。悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、短命内閣に終焉する。戦後GHQによりA級戦犯容疑で起訴され、東京裁判終身刑の判決を受け、服役中に死去した。

来歴[編集]

首相就任まで[編集]

栃木県宇都宮市(栃木県河内郡宇都宮町)出身[1][2][3]。父は地方官僚で元は新庄藩藩士であった小磯進。進が栃木県警部として宇都宮にいる際に小磯国昭が誕生したという[4]。母親は新庄藩重臣の家柄であった戸澤氏の出身である小磯錦子[4]。この母親は国昭が無事に成長するため、栃木の呑龍様に祈って、国昭が15歳になるまで毎月1日は塩断ちをしていたと伝わる[4]

陸軍士官学校12期で、陸軍大学校(22期)を卒業する[1]。陸大教官、陸軍省軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官など要職を歴任し、昭和13年(1938年)に予備役に編入される[1]。昭和17年(1942年)に朝鮮総督に就任した[1]

この間、小磯は転勤族として新潟県の村松、日本の租借地である旅順茨城県水戸福岡県小倉三重県の津、満州国新京広島県の広島など、各地を渡り歩いた[5]

首相就任[編集]

昭和19年(1944年7月、戦況悪化が続いていた日本でサイパン島が陥落すると、当時の首相である東條英機に対する批判が上がり、倒閣運動が開始される[1]。東條は万策尽きて7月18日午前に閣僚全員の辞表を昭和天皇に進呈して総辞職した[1][5]。ところが後継内閣については倒閣運動を起こした勢力のほうも具体的には考えておらず「東條以外の総理なら誰でもいい」といういい加減なものに近かったという[1]。後継候補として挙げられたのは当時の日本最大の政治勢力で悪化する戦況に対応できる人材として、陸軍から選ばれることが決定したが、それでも選び方は陸軍大将の中から「暇をしているような人材」を探して選び出すといういい加減なものだったという[1][6]。候補にされたのは南方軍総司令官の寺内寿一、中国方面司令官の畑俊六、そして朝鮮総督の小磯であった[2]。このうち、寺内と畑が前線で指揮を執る必要性があるとして候補から外され、残った小磯が無理矢理の形で首相に就任することになったという[2]

後継総理に選ばれた際、小磯は朝鮮の京城にいたが急いで上京する[5]。ところが昭和天皇は小磯がかつて陸軍のクーデターに加わった嫌疑があったため、小磯をあまり信任していなかった[2]。このため重臣らは海軍大臣に天皇の信任が厚い米内光政副総理格に用いて[3]、その上で7月20日夕方に宮中に参内させた[2][5]。天皇は小磯と米内の両名に協力して組閣するべきことと、大日本帝国憲法の条項を遵守すること、太平洋戦争完遂のため対ソ連関係の悪化防止に努めるべきことを述べたという[5]。このためこの内閣は小磯内閣というより、小磯・米内の連立内閣のようなものであった。

迷走と退陣[編集]

こうして始まった小磯内閣であるが、そもそも小磯は陸軍大将であるが既に予備役で対米戦に関する詳細な情報などはほとんど持っていなかった[6]。そのため、実際の戦況に関する情報を知って「日本はこんなに負けているのか」と驚いたという[6][2]。また陸軍の現役軍人で無かったため、大本営の会議に出席することも許されず、首相であるにも関わらず重要な軍事情報がほとんど入って来ないという矛盾した状態に置かれた[6]。もともと、小磯は陸軍で現役時代に突出した実績も無かったので人望も乏しく、最高戦争指導会議に出席しても「近代的作戦用兵を知らない首相は口出しするな」と言われる始末で、母体であるはずの陸軍からは「この内閣は2ヶ月で潰す」などと言われてしまうほどだった[2][7]

それでも小磯は陸軍に働きかけて軍人として現役復帰を画策し、「一億玉砕」を叫んで首相と陸軍大臣を兼務して東條と同じように強力な戦争指導体制を築こうとした[6]。だがこれは東條がかつて前例の無い権力集中を画策したために起こった倒閣運動を改めて巻き起こすことになる。しかしなおも小磯は戦争指導内閣として重慶蒋介石政権との和平を試みた繆斌工作を画策したり、航空戦力の増強などを掲げて米軍に一撃を加えた勢いで対米講和を画策したりした[7][5]。だが重臣や連立のパートナーである米内も非協力的で、加えて戦況も昭和19年(1944年)10月レイテ島の戦い、昭和20年(1945年2月からの硫黄島の戦いといずれも敗北し、3月10日には東京大空襲を受けて帝都はほぼ焼失し、さらに4月には戦艦大和坊ノ岬沖で米軍の集中砲火を受けて炎上・沈没して日本連合艦隊は完全に無力化、加えて米軍の沖縄上陸と悪化の一途をたどった[7]

このような中で小磯は4月7日、米軍の沖縄上陸などの責任を取って内閣総辞職に追い込まれた[6][7][5]

その後[編集]

昭和20年(1945年)5月25日、米軍の空襲により麻布にあった小磯の私邸が焼失し、小磯は横須賀にある別荘・「聴潮山荘」に逃れた[5]8月15日に終戦を迎えると、山形県内の視察に出かけている[5]

しかし11月、小磯が戦中に内閣総理大臣であったことからGHQは小磯をA級戦犯として巣鴨プリズンに収監した。小磯は軍事能力や政治能力には欠如していたが、実は文才に関してはかなりのもので、獄中において記憶だけで自伝「葛山鴻爪」を執筆している[5]。これは900ページに及ぶ大著であり、当時は原稿用紙すらほとんど無かったので、その代わりにインドラダ・ビノード・パール判事の意見書の紙の裏を用いたという[5]鉛筆書きで棗半紙の裏にびっしりと書かれており、この生原稿は現在、新庄市ふるさと歴史センターに所蔵されている[5]

昭和23年(1948年)、A級戦犯として終身禁錮刑に処されるが、小磯自身が書き残しているところによると「一番、嫌な刑罰に処せられた」とある[6][7][5]

昭和25年(1950年)4月、小磯は夫人の小磯馨子が重病であったことから、1日だけ帰宅を許されており、その際に家族と写真も撮っている[5][4]。夫人は5月に病死し、小磯自身もその後を追うように11月3日に巣鴨プリズンで死去した[6][5]。70歳没。死因は食道癌であった[6][7][5]

逸話[編集]

小磯は大正時代に大陸から朝鮮、対馬を経て日本につながる海底トンネルに関する報告書を提出している。中国の軍需物資をトンネルを通じて日本本土に輸送しようと考えており、小磯の報告書では将来的にはユーラシア大陸トンネルでつなぐ構想もあったという。このためなのかどうかは不明であるが、昭和14年(1939年)に関門トンネルが開通している[7]

小磯は家族運が非常に薄く、弟や妹、子供などはほとんどが早世している。

家族[編集]

祖父母[編集]

父母[編集]

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妻子[編集]

略歴[編集]

  • 1919年(大正8年)4月15日-参謀本部演習班長
  • 1921年(大正10年)7月20日-航空本部員(ヨーロッパ出張)
  • 1922年(大正11年)2月8日-陸軍大佐に昇進
  • 1923年(大正12年)3月17日-陸軍大学教官
  • 1923年(大正12年)8月6日-歩兵第51連隊長
  • 1925年(大正14年)5月1日-参謀本部編制動員課長
  • 1926年(大正15年)12月1日-陸軍少将に昇進。陸軍大学教官
  • 1927年(昭和2年)7月26日-航空本部総務部長
  • 1929年(昭和4年)8月1日-整備局長
  • 1930年(昭和5年)8月1日-軍務局長
  • 1931年(昭和6年)8月1日-陸軍中将に昇進
  • 1932年(昭和7年)2月29日-陸軍次官
  • 1932年(昭和7年)8月8日-関東軍参謀長兼特務部長
  • 1934年(昭和9年)3月5日-第5師団長
  • 1935年(昭和10年)12月2日-朝鮮軍司令官
  • 1937年(昭和12年)11月1日-陸軍大将に昇進
  • 1938年(昭和13年)7月15日-待命
  • 1938年(昭和13年)7月29日-予備役に編入
  • 1939年(昭和14年)4月7日-拓務大臣
  • 1939年(昭和14年)8月30日-拓務大臣を辞任
  • 1940年(昭和15年)1月16日-拓務大臣
  • 1940年(昭和15年)7月22日-拓務大臣を辞任
  • 1942年(昭和17年)5月29日-朝鮮総督
  • 1944年(昭和19年)7月22日-内閣総理大臣
  • 1945年(昭和20年)4月7日-内閣総理大臣を辞任

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、100頁
  2. a b c d e f g 『激動の日本を動かした最高権力者たちの本懐・内閣総理大臣ファイル』(2009年11月。株式会社G.B.、110頁
  3. a b 『「家計図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣(昭和・平成編)』(2017年7月。実業之日本社、106頁
  4. a b c d 『「家計図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣(昭和・平成編)』(2017年7月。実業之日本社、109頁
  5. a b c d e f g h i j k l m n o p 『「家計図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣(昭和・平成編)』(2017年7月。実業之日本社、108頁
  6. a b c d e f g h i 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、101頁
  7. a b c d e f g 『激動の日本を動かした最高権力者たちの本懐・内閣総理大臣ファイル』(2009年11月。株式会社G.B.、111頁

参考文献[編集]

外部リンク[編集]


先代:
東條英機
内閣総理大臣
41代:1944年 - 1945年
次代:
鈴木貫太郎