終戦の詔書

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終戦の詔書(しゅうせんのしょうしょ)は、ポツダム宣言を受諾し、終戦を日本国民に知らせるものである。 「大東亞戰爭終結ノ詔書」「終戰の詔勅」とも言われる。詔書の内容をラジオ放送したものを「玉音放送」という。

経過[編集]

1945年8月9日10:30。宮城で最高戦争指導会議(鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長)が開催される。冒頭、鈴木首相よりポツダム宣言受諾が提議された。御前会議昭和天皇の参加する最高決定会議)において激論の末、8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定した。「終戦の詔書」の起草は、ポツダム宣言受諾決定を受けて、8月10日頃より始まった。 1945年8月9日16:00 外務大臣の重光葵木戸幸一内大臣が会見した。重光は四条件での回答は「内外収拾すべからざる大事に至る恐れ」があり、侵攻を続ける「ソ連の脅威」から皇室を守るためにも一条件での回答をすべきと説得。最終的に木戸内大臣は一条件案を受け入れた。

終戦の詔書の「第一案」は内閣書記官長の迫水久常や内閣嘱託で漢学者の川田瑞穂らが中心となって作成されたとされる。起草者については見解が複数ある。御前会議における天皇の言葉を記したメモ書きを渡されて、川田が文案を練ったという説がある[1]。迫水説は終戦時の内閣書記官長迫水久常木原通雄(内閣嘱託)、田尻愛義(大東亜次官)らの協力を得て最初の草稿を作成したというものである[2]。筆跡からは川田説が有力とみられる。第三案では、大東亜省嘱託で陽明学者の安岡正篤の考案による加除が行われ、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」等、詔書を構成する重要な語句が加えられた。「終戦の詔書」の文言が確定するまでに、多くの修正が重ねられた。

終戦の詔書は、8月14日の閣議において決定された。閣議では、数回の休憩を挟みながら詔書案の修正が行われた。御前会議のあと、「終戰の詔勅」に天皇が署名・押印し(御名御璽)、鈴木首相と15人の国務大臣が副署して、午後11時に発布された。

1945年8月14日23時20分から翌日の1時頃までかかって宮中で録音し、皇后宮職事務官室に保管された。 翌8月15日に、昭和天皇による詔書の朗読(録音)が「玉音放送」として、ラジオ放送された。オリジナル原盤は現在NHK放送博物館に保存されている。

終戦の詔書[編集]

署名原本は国立公文書館に保存されている。

脚注[編集]

  1. 木下彪(1984)「川田瑞穂翁と安岡正篤翁-終戦詔書の起草者と関与者-」『志道』日本民主同志会(131)
  2. 迫水久常(2015)『大日本帝国最後の四か月: 終戦内閣“懐刀”の証言』河出書房新社