梅津美治郎

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梅津 美治郎(うめづ よしじろう、明治15年(1882年1月4日 - 昭和24年(1949年1月8日)は、日本陸軍軍人太平洋戦争終結時の参謀総長。支那駐屯軍司令官、陸軍次官、関東軍司令官などを歴任。

経歴[編集]

陸軍のエリート[編集]

大分県出身[1]陸軍士官学校に進み15期卒業。その後、陸軍大学校に進学し23期を首席で卒業したエリートだった[1]大正13年(1924年)、歩兵第3連隊長、大正15年(1926年)、参謀本部編成動員課長、昭和3年(1928年)、軍務局軍事課長、昭和5年(1930年)、歩兵第1旅団長、昭和6年(1931年)、参謀本部総務部長を務める。

昭和9年(1934年)、支那駐屯軍司令官に就任。昭和10年(1935年)、国民政府の何応欽梅津・何応欽協定を結ぶ。同年8月には第2師団長となる。

後片付け役[編集]

昭和11年(1936年2月26日二・二六事件が発生する[1]。このとき、仙台第2師団長の地位にあった梅津は皇道派にも統制派にも属さない中立の地位にあったことが買われて、反乱軍に参加した皇道派将校の鎮圧と粛清を担当している[1]

昭和13年(1938年)には第1軍司令官に就任。昭和14年(1939年)にはノモンハン事件が発生すると急遽、関東軍司令官特命全権大使に任命されてソ連との停戦に腐心した[2]。その後、関東軍の暴走を抑えながらその戦力強化に尽力した[2]。昭和15年(1940年)、ヨーロッパナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーが勢力を大いに拡大して枢軸国が優位になっているのを見て、日本も対ソ開戦をするべきであるとの声が陸軍内部で高まるが、同年に陸軍大将に昇進した梅津はこれに猛反対し、関東軍の兵力増強をすることでソ連との衝突を避ける方針をとった[2]。また、この頃には日米関係の悪化から対米開戦の声も高まっていたが、梅津は対米開戦に関しても反対する[2]。昭和16年(1941年12月8日真珠湾攻撃をきっかけに日米が開戦すると、梅津は「この戦争は早く終わらせなければならない」と常に述べていたという[2]。昭和17年(1942年)に関東軍総司令官に任命される[2]

昭和19年(1944年)になると日本の敗戦は色濃くなり、そんな中で7月に梅津は陸軍最高位である参謀総長に任命されたが、梅津はこれを喜ばずむしろ家族に「また後始末だ」と漏らしていたという[2]

昭和20年(1945年8月、日本の敗戦は決定的になり、昭和天皇聖断を下してポツダム宣言を受諾しようとした。しかし陸軍内部にはなおも徹底抗戦を叫ぶ幹部が多数存在しており、本土決戦を叫ぶものも多かった。そのような幹部に対して梅津は「今は御聖断に従い、正々堂々降伏しよう」と涙を流して諌めたという[2]

そして9月2日午前9時、梅津は横須賀沖に停泊するアメリカ太平洋艦隊旗艦・ミズーリ号の上甲板第2砲塔左舷に立ち、日本の軍部代表として日本側の全権代表・重光葵外務大臣に続いて卓上に置かれた降伏文書に署名した[2]。こうして太平洋戦争の後片付け役を梅津は果たしたのである。

戦後[編集]

終戦後、梅津は逮捕され、東京裁判A級戦犯として終身禁固判決を受けた[2]。しかし梅津はこの頃、既に直腸癌を発病して入院中の身であったという[2]

梅津は病身のまま巣鴨プリズンに収監され、服役する[2]。そして昭和24年(1949年)1月8日、服役中に直腸癌が悪化したことと肺炎の併発により獄死した[2]。67歳没。

人物像[編集]

梅津は陸軍のエリートコースを歩いてきており、冷静沈着で感情をほとんど表に現さないことから「お能の面」などと渾名を付けられたという[2]

石原莞爾は梅津を高く評価しており、「陸軍省で話し相手になるのは梅津だけだ」と述べていたという[2]

略歴[編集]

  • 1924年(大正13年)12月15日 - 陸軍大佐に昇進、歩兵第3連隊長
  • 1926年(大正15年)12月1日 - 参謀本部編成動員課長
  • 1928年(昭和3年)8月10日 - 軍務局軍事課長
  • 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍少将に昇進、歩兵第1旅団長
  • 1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部長
  • 1933年(昭和8年)8月1日 - 参謀本部付
  • 1934年(昭和9年)3月5日 - 支那駐屯軍司令官
  • 1934年(昭和9年)8月1日 - 陸軍中将に昇進
  • 1935年(昭和10年)8月1日 - 第2師団長
  • 1936年(昭和11年)3月23日 - 陸軍次官
  • 1936年(昭和11年)4月24日 - 陸軍造兵廠長官事務取扱
  • 1938年(昭和13年)5月30日 - 第1軍司令官
  • 1939年(昭和14年)9月7日 - 関東軍司令官兼駐満州国大使
  • 1940年(昭和15年)8月1日 - 陸軍大将に昇進
  • 1944年(昭和19年)7月18日 - 参謀総長
  • 1945年(昭和20年)10月15日 - 軍事参議官
  • 1945年(昭和20年)11月30日 - 予備役

脚注[編集]

  1. a b c d 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、104頁
  2. a b c d e f g h i j k l m n o 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、105頁

参考文献[編集]