西南戦争

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西南戦争(せいなんせんそう)とは、鹿児島県(旧薩摩藩)で明治10年(1877年)に発生した内乱である。明治時代における不平士族による最大にして最後の反乱であり、現在まで、国土荒廃を伴う内戦はない。

概要[編集]

前夜[編集]

明治6年(1873年)に、遣韓論[注釈 1]に端を発した明治6年の政変において、自らの韓国への特使早期派遣を強硬に主張した西郷隆盛は、条約改正目的で欧米列強と肩を並べるための国内改革を優先する岩倉具視大久保利通木戸孝允らと対立し、10月に西郷隆盛をはじめ江藤新平後藤象二郎板垣退助副島種臣らと共に辞職して下野した。これにより明治政府は岩倉具視や大久保利通らが実権を掌握して国内の制度改革が進められた。

西郷隆盛の下野と共に、桐野利秋などの政府官僚や薩摩出身の警察官も鹿児島に帰国し、下野した西郷は明治7年(1874年)に同地に私学校を設立した。具体的には私学校をいくつもの分校に分け、鉄隊学校と呼ばれる鉄砲の使い方を教える学校大砲の使い方を教える砲隊学校、士官などを養成する賞典学校などで、鹿児島県内各地に合わせて136の分校が造られ、県費補助を受けた。
また西郷は鹿児島郡吉野村(現・鹿児島市吉野町)に士族の自立を助けるために農業を教え、野山を切り開き、田畑を作る団体として開墾社も設立した。

他方、この政変は武士時代の特権や秩禄を奪われた当時の士族が、政府に不満を溜めていた時期と重なった。そのため、明治7年(1874年2月に江藤新平・島義勇らによる佐賀の乱、明治9年(1876年10月神風連の乱萩の乱など各地で不平士族による明治政府に対する反乱が相次いだ。

桐野利秋ら急進派は西郷の下に結集した士族を反政府勢力として私学校党を結成し、軍事訓練を繰り返した。西郷はこれらを黙認はしたが、不平士族の反乱に乗じた決起の要求に関してはあくまで反対したという。西郷自身はあくまで明治政府に反逆する意思は無く、農村開墾によって不平士族の不満を少しでも和らげようとする意思があったとされる。

明治政府には、大久保利通の側近で大警視である川路利良が送り込んだ密偵・中原尚雄らをはじめとした旧薩摩藩出身の警視庁警官23名を通じて、このような鹿児島の動きが届けられており、大久保利通は事態を憂慮して鹿児島に置いていた武器弾薬を大阪に移すように指示した。
ところが同時期に密偵の中原尚雄が私学校における生徒によって捕縛されて尋問という名の拷問を受ける。中原からは拳銃が所持品として発見され、私学校の生徒らは中原が大久保の命令で西郷を暗殺しようとしたのではと白状させようとする。中原自身は拳銃はあくまで護身用と訴えて否定したが、この時期に武器を移し出したために私学校の生徒が憤激して武器弾薬を奪い返そうとして政府の兵士と交戦となる。
これを知った西郷はなおも不平士族を止めようとしたが最早暴発した彼らは西郷ですら止めることはできず、結局私学校の生徒の訴えで開戦となった。この際、西郷は「政府にお尋ねしたきことあるため、東京に向かう」と発言したという。

戦闘[編集]

2月15日、1万3000の兵力で西郷軍は鹿児島を進発した。この時、南国鹿児島で50年ぶりに大雪が降ったといわれている。九州各地から不平士族が加わったこともあって2万以上に膨れ上がり、2月21日には熊本城の鎮台を包囲した。

実は西郷軍に包囲される直前の2月19日、熊本城では原因不明の出火が発生し、天守閣や本丸御殿など城郭の主な建築物が焼失するという事態になっていた。この時に熊本城を守備していた熊本鎮台[注釈 2]の司令長官である谷干城は焼け落ちた城で徹底守備を行なって堅守する。明治政府は同日、鹿児島暴徒征討の詔を発し、熊本に増援を送ることを決定した。

やがて明治政府の援軍が各地から駆けつけてきた。その中で最大の激戦となったのが熊本県熊本市北区鹿本郡植木町)の田原坂で行なわれた田原坂の戦いである。この戦いは3月4日から始められ、政府軍は1日平均で40万発の弾丸を使ったとまでいわれている。この戦いで両軍共に多数の死傷者を出したが、3月9日に政府軍が横平山を突破し、それにより次第に兵力・物量で勝る政府軍が有利になる。そして3月20日、17日間の激戦の末に西郷軍は敗れて人吉に撤退した。

4月5日、八代近くで西郷軍と政府軍が衝突している。4月14日に西郷軍は熊本城の包囲を解いた。西郷軍は4月27日に人吉に到着すると5月6日に人吉を攻撃するが、ここでも政府軍の圧倒的な物量の前に敗れて宮崎に敗走した。

一方、明治政府軍は別軍を鹿児島に派遣しており、5月1日に鹿児島市内を占領する。

5月31日に、当時は県内[注釈 3]だった宮崎まで敗走した西郷軍であるが、ここで軍費が枯渇するようになったため、私製の紙幣(軍票)を作って物資を調達しようとした。いわゆる西郷札である。このため、西郷軍は農民などからは余り支持を得られなかった。

7月31日、政府軍は宮崎を攻略し、西郷軍は延岡に敗走する。8月15日、西南戦争最後の大激戦となる和田越の戦いが行なわれたが、西郷軍3500人に対し、政府軍は7倍の2万5000人という圧倒的兵力差の前に西郷軍が敗れ、西郷軍は兵力を2000人にまで減らしてしまった。勝敗を悟った西郷は8月17日に東臼杵郡長井村(現在の宮崎県延岡市)で西郷軍を解散することを命令した。これにより多くの将兵が政府軍に降伏し、西郷には桐野利秋ら370名ほどの兵士だけが残ったという。西郷はその日の夜から8月18日にかけて、政府軍の警備が手薄な可愛岳の山中を突破し、政府軍と小規模な戦闘を繰り返しながら9月1日に鹿児島に戻った。

西郷は鹿児島に戻ると鹿児島市街の西にある城山に立て籠もった。政府軍は追撃して総攻撃を加え、桐野ら一部は西郷に逆賊の汚名を着せたくないと助命嘆願を図る。軍使には河野圭一郎が赴いて海軍太輔であった川村純義と交渉するが、川村は西郷自身の弁明と出頭を求めて拒否し、期限を9月23日いっぱいまでとした。しかし西郷からの返答は無く、政府軍は9月24日に総攻撃を開始する。

西郷は城山の洞窟から出撃して500メートルほど進んだが、この際に政府軍からの銃弾を身体に受けて動けなくなったので切腹を覚悟し、別府晋介に命じて介錯させたという。この際、西郷は「晋どん、もうここいらでよか」と言い、別府は「ごめんなすっても(お許しください)」と述べたと言う。西郷の死去、そしてその後に桐野らも戦死し、西南戦争は完全に終結した。

影響[編集]

この西南戦争で明治政府の軍事力が明らかになり、この戦争日本最後の内戦とされる。また、鹿児島県令として西郷らの行動を支持した旧薩摩藩士の大山綱良は免職後、処刑された。

一方、共に倒幕に尽力しながら、明治六年の政変で西郷と袂を分かって薩長政府に留まった大久保利通は、終結翌年の1878年に、西郷に共鳴した主に加賀藩出身の不平士族によって暗殺(紀尾井町の変)されるなど、戦後も反中央政府の遺風が残り、大久保の一族は薩摩に帰還できないほどになったという。

大久保歿後は板垣退助らによる自由民権運動が反政府運動の主体となったが、岐阜での板垣退助遭難事件や戦後のインフレ収束策(いわゆる松方デフレ)で農村の困窮が激しくなったことをきっかけに秩父事件福島事件など、西南戦争後も小規模の反政府の騒乱が生じた。武力でなく言論での争いに本格移行したのは1887年保安条例制定以降である。

西郷は政府を下野しても陸軍大将の地位にあったが、この戦争で賊軍の首魁となった。また、征韓論の首謀者とされるが、西郷下野から2年後の1875年川村純義の建議で、朝鮮に海軍艦隊が派遣され江華島事件が勃発して、武力を背景に日朝修好条規が締結され、西南戦争前に武力で朝鮮に圧力をかけている。

なお、明治天皇は西南戦争が起きても西郷を信任していたため、12年後の明治22年(1889年2月に西郷の罪を赦免し、正三位の位を贈っている[注釈 4]

ちなみに、明治24年(1891年)にロシアロマノフ朝皇太子であるニコライ(後のニコライ2世)が訪日し、滋賀県大津で巡査津田三蔵に斬りかかるという大津事件を起こした際、津田は取り調べに対して「西郷がロシアから皇太子と共に戻ってくると思い、西南戦争で授与された勲章が剥奪されるのではないかと心配した」などと発言している[注釈 5]

西郷が生存している噂は死後からあったとされ、『東京日日新聞』『日本』『時事新報』などの新聞が取り上げていた。

明治政府は西南戦争終結後、大勝を祝って各県の郡区長に国旗を掲揚する命令を出し、これが祭日の国旗掲揚の初めとなった。

両軍の兵力[編集]

西郷軍[編集]

1番大隊から8番大隊まで分かれ、さらに大砲隊、軍役夫などがいた。大隊の兵力は各2000人で、合計して約1万3000人。この他に熊本隊・協同隊・竜口隊・佐土原隊・飫肥隊・延岡隊・高鍋隊・福島隊・人吉隊・中津隊・報国隊・都城隊・新奇隊などがあった。これら各隊の兵力は様々で、合計しておよそ7000人ほどとされている。

西郷軍の主力兵器はエンフィールド銃で、先込め式の旧式銃であったため、雨天の時は火薬が湿って使用不能になることが多かったという。このため、白兵戦に挑むようになり、これに対して政府軍は抜刀隊を組織して対抗した。

政府軍[編集]

熊本城の谷干城が率いる鎮台の兵力がおよそ3300人。増援された政府軍は第1旅団から第4旅団、別働旅団が第1旅団から第4旅団に分かれていた。また、新撰旅団や海軍などもあり、各旅団の兵力はおよそ3000人から4000人で、最終的に合計しておよそ6万人の兵力が集められたという、

政府軍の主力兵器はスナイドル銃で、元込め式の新型銃で、先に銃剣を付けたままでも発砲が可能だったという。

史料から読み取れる西南戦争における明治政府側の試算は以下の通り

  • 軍艦 10余隻2100人。
  • 陸軍5万2200人。
  • 屯田兵600人。
  • 巡査隊1000人。
  • 予備軍6万3000人。
  • 東京巡査派遣5700人。
  • 戦費4156万円。

西南戦争関連の史跡[編集]

  • 田原坂 - 福岡市から熊本市に向かう途中にある坂。福岡からやって来た政府軍と西郷軍の最大の激戦地となる。現在は熊本県立田原坂歴史公園となっており、公園の中には西南戦争で戦没した戦没者の慰霊碑、資料館、当時の兵士が立て籠もった弾丸跡などが伺える。
  • 城山 - 薩摩藩の居城・鶴丸城の西にある高さ107メートルの小さな山。西郷隆盛が西南戦争の最後に陣地を構えた。城山の北の谷間に西郷が最後に立て籠もった洞窟が残っている。
  • 南洲翁終焉の地 - 城山の洞窟から500メートルほど下ったところにある西郷隆盛終焉の地。現在は碑が建っている。西郷は9月24日にここで政府軍の銃弾を受け、最後は自害した。

西南戦争関連の経歴[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. 当時、朝鮮は興宣大院君によって鎖国政策が取られ、また大院君が維新後欧米文化を取り入れようとした日本を衛正斥邪の考えで夷狄扱いにして明治新政府との交渉を一切拒否し、嫌日の雰囲気が高まっていて打開が求められていた。
  2. 明治初期に各地に設置された政府軍の軍事的な要衝地。東京仙台名古屋大阪広島・熊本の6つに当時は置かれていた
  3. 宮崎県の再置は西南戦争終結後の1883年5月。
  4. 西郷は存命中の明治2年(1869年)に正三位に叙されていたが、西南戦争で熊本城を包囲した際に官位を剥奪されていた。
  5. 津田は西南戦争に参加して勲功を立てていた。
出典

外部リンク[編集]

関連項目[編集]