秩父事件

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秩父事件
戦争: 秩父事件
年月日: 1884年(明治27年)10月31日 - 11月9日
場所: 埼玉県秩父郡
結果: 日本国旗(1870-1999).png 大日本帝国側の勝利
交戦勢力
日本国旗(1870-1999).png 大日本帝国 困民党
指揮官
? 田代栄助
加藤織平
戦力
警察
憲兵
東京鎮台
数千兵
損害
? ?

秩父事件(ちちぶじけん)は1884年(明治27年)10月31日から11月9日にかけて発生した事件である。

概要[編集]

秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(文献により、秩父困民党・秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所の書類を破棄した。

しかし、当時既に開設されていた電信により、いち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、上野駅から特別列車を仕立てて警察隊・憲兵隊を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された[1]

一部の急進派は、長野県南佐久郡北相木村出身の自由党員で、代言人菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信濃国に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町馬流駅付近)で、高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は、各地で次々と捕縛された。この事件で警察官5人が殉職した。

事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助加藤織平新井周三郎高岸善吉坂本宗作菊池貫平井上伝蔵の7名には、死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府市で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. 竹内正浩 『鉄道と日本軍』 筑摩書房、2010年9月10日、92-93頁。ISBN 978-4480065698