佐賀の乱
佐賀の乱(さがのらん)とは、明治7年(1874年)に佐賀県で発生した明治政府に対する反乱である。首謀者は江藤新平。佐賀の役(さがのえき)とも言われる。
概要[編集]
明治政府創設後、政府内部ではロシアの脅威に対抗するために西郷隆盛、江藤新平らによる征韓論と、まずは内政を固めるのが必要と唱える内政派で分かれて対立し、敗れた江藤は参議の職を辞して故郷の佐賀に帰郷し、征韓党を組織した。また、秋田県権令であった島義勇も、佐賀に帰郷して憂国党を組織した。
これを見て当時の佐賀県権令であった岩村高俊は佐賀県に不穏な空気を流れているのを理由に、熊本鎮台の兵士に護衛される形で着任する形となったのだが、これが逆に不穏分子をさらに刺激することになり、世情は騒然となった。明治7年(1874年)2月16日の夜、遂に佐賀県で反乱が勃発した。10数日にわたって攻防戦が繰り広げられたが、元々強大な物資を誇る明治政府軍と佐賀県の反乱分子では元より勝負にならず、反乱軍は弾薬の補給が遂にままならなくなって敗北した。江藤や島らは鹿児島県に逃れて同じく征韓論に敗れた西郷隆盛を説得して鹿児島士族の力を借りて再度反乱を起こそうとしたが、西郷はこれを受け入れずに追い返した。
結局、島は鹿児島県で、江藤は高知県でそれぞれ捕縛された。なお、この際に江藤を捕縛するのに役立ったのが現在でも使用されている指名手配写真である。これは明治政府が創設された際に司法卿に任命された江藤が法律を整備する過程で作った制度だったのだが、日本初の指名手配第1号がよりによって江藤自身になるというのは運命の皮肉であった。
江藤や島らは形だけの裁判にかけられ、4月13日に処刑され、その首は晒し首とされた。
現在、佐賀市水ヶ江1丁目万部島に佐賀の役記念碑が建立されている。これは江藤や島など、反乱で犠牲になった216柱を弔うために明治19年(1886年)に西ノ門に建立されていた招魂碑を大正8年(1919年)になって移したものである。また、この反乱による明治政府軍の戦没者108名の墓碑は中の館町の乾享院にある。