板垣退助
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板垣死すとも自由は死せず
板垣退助(いたがき たいすけ)とは、江戸時代から大正時代にかけての政治家、政治運動家、軍略家、土佐藩士、自由党初代党首である。
生涯[編集]
1837年、土佐にて出生。三条実美と同い年で、孝明天皇より6歳年下である。幼少期から武道の稽古を受け、青年期には土佐藩の上級武士(上士)にまで成長。後藤象二郎はいとこ同士の関係で、今で言う悪友であった。
1874年、征韓論を巡って政府と対立し、西郷隆盛や江藤新平などとともに政府を去る。その後に江藤らと民選議員設立の建白書を政府に提出するが、思うように受け入れられなかった為、板垣派の士族が反乱を起こした。
これらの反乱は、板垣に自由民権の必要性を痛感させた。1882年、一人の青年が板垣を刺し、胸と腕に傷を負った。ここでで「吾死するとも自由は死せん」と発言。後世に残る名言、「板垣死すとも自由は死せず」の原型である。1883年、フランスに渡航。その際、ルイ・ヴィトンのトランクを購入した。このトランクは日本に現存するルイヴィトン製品で最古と思われる。
数々の乱懲りたのか、明治政府は1890年に国会を開設、大日本帝国憲法を発布した。また、自由党を設立。現在の自由民主党は、実質的な自由党の後継政党である。
1919年、死去。享年82。