楊儀
楊 儀(よう ぎ、? - 235年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将・政治家。字は威公(いこう)[1]。兄は楊慮。
概要[編集]
諸葛亮の側近として活躍し、亮死没時の蜀軍撤退に貢献したが、度量が大変小さかったために亮の没後重職に就けず、その不満を上奏したために自殺に追い込まれた。
生涯[編集]
荊州襄陽郡の出身[1]。最初は曹操配下の荊州刺史である傅羣の主簿を務めていたが、傅羣に背いて蜀の襄陽太守だった関羽の下に逃げ込んで功曹に取り立てられる[1]。その後、劉備への使者となった際に劉備に気に入られて左将軍兵曹掾に任命され、219年に劉備が漢中王になると尚書に昇進した[1]。222年の夷陵の戦いでは尚書令の劉巴と対立し、それにより弘農郡太守に左遷された[1]。
223年に劉備が亡くなり、その前年には政敵の劉巴も死去しており、そのため225年には諸葛亮の南征に参軍として参加する[1]。諸葛亮の北伐が始まると、部隊編成の計画や兵糧調達などの事務手腕に優れていた楊儀は諸葛亮から重用され、北伐に随行を命じられ軍事上における必需品調達などの仕事に能力を発揮する[1]。しかし蜀軍の中心人物である魏延と大変仲が悪く、互いが争論になれば魏延が刀を突き付け、楊儀は涙を流す有様だった[1]。諸葛亮は2人の不仲を大変残念がったという[1]。
234年に諸葛亮が死去し、楊儀は諸葛亮の遺言で全軍を率いて益州に帰還するが[1]、この際にひと悶着の末に魏延を斬った。ところがこの時「馬鹿野郎め、もう1度悪い事ができるならやってみろ」と言って魏延の首を踏みつけたという[1]。このような偏狭で小さい度量のために諸葛亮からは後継者と見なされておらず、諸葛亮の後継者には蒋琬が就任し、楊儀は中軍師に任命されるに留まった[1]。このため、不満を抱いた楊儀はそれを費禕にぶちまけ、費禕はそれを劉禅に上奏し、劉禅は235年に楊儀を庶民の身分に落とした上で漢嘉郡に流罪とした[1]。ところがここでも上書で誹謗を繰り返したので遂に逮捕され、そして自殺した[1]。
『三国志演義』では諸葛亮の第1次北伐が始まる第91回から初登場する[1]。しかし楊儀の偏狭な性格を描く事は重用している諸葛亮を傷つけることになるためか、史実ほど狭量な人物として描かれてはいない。諸葛亮の補佐役として事務的な手腕に優れるが、魏延との不仲は史実通りで魏延の行動を常に諸葛亮に報告したりしている。苟安が兵糧輸送を怠った際には諸葛亮と李厳の仲がこじれることを恐れて処刑に反対している。最後の北伐で孫権の援軍を望む諸葛亮が費禕を派遣してそれを承諾した孫権が費禕を交えての宴会を開いた際、孫権が「なぜ諸葛亮ほどの人物が楊儀のような小者を用いているのか?」と尋ねている。諸葛亮が死去するとその遺言に従って姜維を殿軍として命令に背く魏延を無視して撤退する。そして魏延を討ち取るが、史実通り後継者に選ばれない不満をぶちまけて劉禅の怒りを買い、庶民に身分を落とされて流罪にされ、庶民に落とされたことを恥じて自殺している。