馬良
馬 良(ば りょう、187年 - 222年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の政治家・武将。字は季常(きじょう)[1]。弟は馬謖。子は馬秉。劉備の家臣。
生涯[編集]
荊州襄陽郡宜城県[1](湖北省宜城市)の出身。兄弟5人がいずれも秀才で全員字に「常」が付いていたため郷里では「馬氏の五常」と言われ、中でも一番優秀であった馬良の眉毛は白かったので「白眉」(はくび)の故事を生み、多くの中で最も優れている者の事を指すようになった[1]。劉備が荊州を平定した際に家臣となり、従事に任命される[1]。劉備や諸葛亮が入蜀した際には荊州に留まった[1]。後に劉備に召されて蜀に入り、左将軍掾に任命される[1]。孫権への使者になった事があるが、その際に草稿を作成して孫権より厚く礼遇された[1]。221年に劉備が皇帝として即位すると侍中に任命され、その直後に劉備が呉に対して東征を開始した際には五渓の異民族を帰順させて味方にする功を立てたが、222年の夷陵の戦いで陸遜の前に大敗した際に乱戦の中で戦死した[1]。
馬良は諸葛亮に手紙を出した際に諸葛亮を「尊兄」(諸葛亮が6歳上)と呼んでいるため、義兄弟の契りを結んだか共通の親類であったと推測されている[1]。
『三国志演義』では第52回で伊籍の推挙を受けて劉備に仕える場面が初登場。蜀平定後は関羽の参謀となり、関羽が孫権に背後をつかれた際に劉備に救援を求める使者となったため巻き添えにならずに済んだ。夷陵の戦いにも参戦し、勝ちに奢る劉備を諌めたり、劉備の陣立てを諸葛亮に報告する役目を務めている。ここで馬良は姿を消しているが戦死はしていない。第87回で諸葛亮の南征の際に馬謖が喪服を着て諸葛亮の前に現れて馬良の死去を報告しているので、史実より3年長生きした事になる。