劉璋
劉 璋(りゅう しょう、? - 219年[1])は、後漢末期に蜀に割拠した群雄で益州牧[1]。父は劉焉。兄に劉範・劉誕・劉瑁。子に劉循・劉闡。字は季玉(きぎょく)[1]。
生涯[編集]
劉焉の4男で、最初は兄らと共に献帝に従って長安で奉車都尉の任に就いていた[1]。しかし父が蜀において勢力を拡大して自立の気配を見せだしたため、献帝より劉焉説得の使者として派遣されるが、この時に劉璋は父によりそのまま成都に引き止められた[1]。194年に兄らは馬騰や韓遂らと共謀してクーデターを起こして失敗し李傕により殺害されているが、劉璋だけはこのおかげで難を逃れている。また、息子2人を失った劉焉は失意のうちに病に倒れて死去したため、劉焉の息子としてただ一人残っていた劉璋がその跡を継ぐことになった。この際、益州大官の趙韙は献帝に対して劉璋は温厚な人柄であるから刺史とするように上書し、それはかなわなかったが益州牧として認める詔書が出されている[1]。
しかし劉璋は父と比べて統治能力が欠如していた。父親の時代には服従していた漢中の張魯が反抗したため、劉璋は報復として人質としていた張魯の母親と弟の張徴を殺害[1]。さらに重臣の龐義に命じて漢中平定を画策するが、張魯の抵抗に遭い何度も失敗に終わった[1]。また劉焉が1代で益州に強力な地盤を築き上げることができたのは荊州南陽郡などから益州に流れ込んだ流民数万人を選抜して東州兵という強力な軍団を創っていたためであるが、この東州兵は劉璋に代替わりすると劉璋が優柔不断で威厳が無い事をいいことに土着の益州豪族や人民と土地や権利をめぐって対立を深め、劉璋はそれを取り締まる事ができなかった[1]。1度だけ、劉璋は益州大官の趙韙に命じて東州兵を統制しようとしたが、その趙韙が事もあろうに東州兵に圧迫されていた益州人民や豪族を扇動し、さらに荊州の劉表と手を結んで大規模な反乱を起こした[1]。この反乱は広漢郡など3郡に拡大し、劉璋は成都に籠城して一時は危機に陥ったが、東州兵は劉璋を支持して趙韙と戦い、その奮戦により趙韙は敗れて部下に殺害され、反乱は鎮圧された[1]。
208年、曹操が劉表没後に荊州を制圧すると、劉璋はその勢威を恐れて張粛・張松らを派遣して誼を通じた[1]。しかし張粛は丁寧な応対を受けたが張松は冷遇されたため、張松は曹操とは手を切り劉備と手を結ぶことを進言し、劉璋はそれを受け入れた。当時、張魯の勢いに劉璋も悩まされており、劉備を張魯にあたらせようとしたのである。家臣の黄権・王累らがこれに猛反対したにも関わらず劉璋は劉備を受け入れ、さらに兵力や物資を与えて援助までしてしまう[1]。だが張松の兄・張粛が劉備と弟の内通を嗅ぎつけて劉璋に密告。劉璋は激怒して張松を殺害し、劉備と戦いを開始した[1](劉備の入蜀)。しかし劉備軍の前に劉璋軍は各地で敗北。重臣の張任は斬られて214年には遂に成都が劉備軍に包囲されることになった[1]。しかも馬超が劉備に味方した事に劉璋は愕然としたという。この時、成都には3万の精鋭と1年分の食糧があり、官民も劉璋のために命を賭して戦う覚悟だったという[1]。部下の鄭度は劉璋に焦土作戦を進言するが劉璋は受け入れず、「我々親子は20年以上も益州を統治したが、人々に恩恵を施した事が無かった。人々が戦いに3年も明け暮れて血を流したのは私のせいだ。どうして平気でいられようか」と述べて城門を開いて自発的に劉備に降伏したという[1]。この降伏に家臣は全員、涙を流したという[1]。
劉備は劉璋の財産と振威将軍の印綬を保証した上で荊州の公安に身柄を移した[1]。219年、荊州を守備していた関羽が孫権により斬られて荊州が孫権の支配下になると、劉璋は孫権より益州牧に任命されて秭帰に駐屯するが、同年の内に死去した[1]。
『三国志演義』でも凡庸な君主として描かれているが、焦土作戦を拒否するなど民衆思いの人物として描かれている。荊州に身柄を移されたところで物語から姿を消しており、死去は描かれていない。
人物像[編集]
陳寿は「明晰な判断力に欠け、英雄としての器も無く、混乱に陥れた」「土地や官位を奪われたのは不幸とは言えない」と酷評している。ただし陳寿が劉備の蜀に仕えた旧臣で劉備の乗っ取りを正当化するために劉璋を貶める必要があるなど注意が必要である。実際、『漢記』を著した張璠などは「脆弱な男であったが善言を守り、無道の君主と言うほどではない」と温厚で官民にも慕われていたが乱世には向かない人物だったと弁護している。鄭度の焦土作戦拒否に関しても『華陽国志』ではそれを受け入れなかった劉璋が非難されているが、吉川三国志においては民衆を苦しめなかった劉璋を評価している。