程畿
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程 畿(てい き、? - 222年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。字は季然(きぜん)[1]。子は程郁・程祁。
生涯[編集]
益州巴西郡閬中県の出身[1]。はじめ劉璋に仕えて漢昌県長となる[1]。同僚で巴西郡太守であった龐羲が讒言により劉璋から謀反の嫌疑をかけられた際、その誤解を解くのに功を立てたため江陽郡太守に抜擢される[1]。劉備が益州を平定するとその家臣となり、従事祭酒に任命された[1]。
222年の夷陵の戦いに従軍し、蜀軍が陸遜の前に大敗すると自ら矛を持って追撃する呉軍相手に奮戦したが、戦死した[1]。
『三国志演義』では夷陵の戦いで劉備の参謀として従軍し、劉備に呉軍の夜襲を警戒するように進言するも聞き入れられず、その進言どおりに呉軍に襲撃されて蜀軍が大敗すると自ら矛を持って応戦し、最後は運命を悟って自ら首を刎ねる壮烈な最期を遂げた。