張郃
張 郃(ちょう こう、? - 231年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏にかけての武将。字は儁乂(しゅんがい)[1]。子は張雄ほか。韓馥、次いで袁紹に仕え、官渡の戦いにおいて曹操に降伏する。魏の五将軍の一人に数えられる名将で曹丕・曹叡の3代に仕えて半世紀にわたり戦場を走りぬいた。
生涯[編集]
韓馥の時代[編集]
冀州河間郡鄚県(現在の河北省任丘市)の出身。184年の黄巾の乱の時に募集に応じて韓馥に仕えた。191年に韓馥が袁紹の半ば脅迫に屈して冀州を譲り渡した際、袁紹に属することになる[1]。
袁紹の時代[編集]
袁紹の時代には武将として公孫瓚との戦いで武功を立て、袁紹から寧国中郎将に任命される。200年の官渡の戦いでは自らも曹操軍に対する良策を主張するも袁紹に容れられず、逆に退けられた上に同僚の郭図が主張した曹操が留守の敵本陣を攻める武将に起用される。張郃は曹操が留守とはいえ落とせるわけがないとして反対したが容れられず、予想通り敗北した上に責任を回避するために郭図から全ての罪を着せられて讒言され、殺されることを恐れた張郃は高覧と共に曹操に投降した。この際に曹操は「韓信が我に帰順した」とその投降を喜び、張郃を偏将軍に任命して都亭侯に封じた[1]。
曹操・曹丕の時代[編集]
曹操に仕えてからは袁譚、馬超、韓遂、張魯など東西南北を問わず各地に出陣して武功を立て、その武名を中国全土に轟かせる。張魯が曹操に降伏すると、曹操から夏侯淵と共に漢中郡の守備を託され、益州の劉備と戦うことになる。この漢中攻防戦でも劉備の夜襲を受けながらも奮戦するなど武功を立て、219年に黄忠が夏侯淵を討ち取った際には「最も大事な者(張郃)を討ち取っていないではないか」と張郃を取り逃がしたことにむしろ叱責を与えたという。この漢中攻防戦は結果的に劉備の勝利に終わり、曹操は劉備の押さえとして張郃を陳倉に残して撤退した[1]。
220年に曹操が死去すると跡を継いだ曹丕(文帝)に仕える。この際に左将軍に任命され、曹丕が文帝として皇帝に即位すると鄚侯に爵位が昇進した。曹真と共に安定郡の蛮族である羌族を討伐し、夏侯尚と共に孫権領の江陵を攻撃して中州にあった孫権軍の砦を奪う武功を立てた[1]。
曹叡の時代[編集]
226年に文帝が崩御すると、跡を継いだ曹叡(明帝)に仕える。227年に徐晃が死去した時点で他の5将軍は全て他界し、夏侯惇や曹仁らも既に死去していたので、この時点で魏に残っていた経験豊富な名将としては張郃だけとなった。
文帝の崩御を見た孫権は魏に攻撃をかけるが、張郃は司馬懿と共に荊州に駐屯してこれを迎え撃ち、孫権軍の劉阿を打ち破る武功を立てる。228年の蜀の諸葛亮の北伐では、張郃は明帝から召喚されて特進の位を与えられ、諸軍の指揮権を与えられて蜀軍を迎撃するように命じられる。張郃は街亭の戦いで諸葛亮が派遣した馬謖の軍勢に大勝し、諸葛亮を漢中に撤退に追い込む大功を立てた。この功績により1000戸の加増を受けて合計4300戸の領邑を与えられるという破格の厚遇を受けた[1]。
再び諸葛亮が北伐を開始して陳倉に攻め入って来たが、張郃は既に諸葛亮の作戦を読み切っており、明帝に対して「私が到着しないうちに諸葛亮は退却します」と告げ、自ら昼夜を問わず進軍を続けて南鄭に到着する。諸葛亮の蜀軍には長期戦の備えが無く、また張郃が到着したことで勝機を失ったので漢中に撤退した[1]。
231年に諸葛亮が再度北伐を行ない、張郃は司馬懿の下で参加するが、張郃が略陽に到着したのを見て諸葛亮はまたも撤退を開始した。撤退する諸葛亮を追撃するように司馬懿は張郃に命じ、張郃はこれに対して逃げる敵を追うべきではないと反対するが、司馬懿が聞き入れなかったのでやむなく蜀軍を追撃する。諸葛亮は木門に伏兵を配置しており、張郃はその伏兵に遭って右膝に敵の矢を受けた負傷が原因で戦死した[1]。
人物像[編集]
黄巾の乱から半世紀近くを戦場で過ごしてきた歴戦の名将・勇将であり、その武名は曹操や劉備すら認め、諸葛亮からは恐れられたという。張郃は戦争の状況や地形を把握して臨機応変の軍事に対応できたという[1]。
司馬懿が張郃に無理な追撃を強制した理由は、張郃の軍功と軍内における影響力が自らを脅かすほど強大で将来的な政敵になることを恐れて無理な追撃をさせて死地に追い込んだとする説がある。陳舜臣などは自らの作品でこの説を採用している。
三国志演義やその他の扱い[編集]
『三国志演義』では最初から袁紹の配下として登場する。官渡の戦いでは曹操軍の名将・張遼と一騎討ちを行なって引き分ける。後は史実通り郭図の讒言を受けて高覧と共に曹操に投降する。演義における張郃も名将であることに間違いはないのだが、史実のように冷静沈着な知将としてのイメージは無く、血気盛んな勇将として描かれている。張魯討伐や劉備との漢中攻防戦では武功は立てているのだが、その前に油断したり敵を侮ったりして敗れて叱責を受けたり、責任を追及されて軍法により処刑されかけたりしている。蜀の五将軍との戦いでも、張飛と引き分けた以外は、趙雲・馬超・黄忠の全てに敗れている(ただし最強の張飛と引き分けてそれより下の3人に敗れること自体がおかしい)。それ以後は諸葛亮の北伐までは登場しない[1]。
諸葛亮の北伐では司馬懿に配属した武将として描かれ、馬謖大勝の功績は全て司馬懿に取られてしまっている。ただしこの時も王平を破るなど武功を立てている。以後も諸葛亮の北伐で数々の武功を立て、その武勇を恐れた諸葛亮から「蜀に災いをなす敵」と認定されてしまう。231年の北伐で諸葛亮が漢中に撤退を開始すると、張郃は司馬懿に対して強硬に追撃を主張して撤退する蜀軍を追って射殺されるという立場が逆の設定になっている[1]。
ドラマ『三国志 Three Kingdoms』では、第89話において剣閣道にて諸葛亮の命を受けた姜維の弓兵に射殺されている。
吉川英治の小説『三国志』では、作者のミスで3回も戦死している(汝南で関羽に[2]・長坂で趙雲に[3]・木門道で孔明らに殺される[4])。