吉田好寛

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吉田 好寛(よしだ よしひろ、? ‐ 慶長20年5月7日1615年6月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将徳川氏豊臣氏結城氏家臣

略歴[編集]

美濃国生まれ。通称は清六・久左衛門。官途は修理亮。

最初は徳川家康、次いで豊臣秀吉に仕えた後、豊臣秀次付となる。秀次事件の際、秀次を懸命に弁護して秀吉との対決も辞さないほどの覚悟を示したといわれる。そのため、秀次の死後は豊臣氏を離れて家康の次男・結城秀康に仕えて越前国足羽郡に1万4000石という大名クラスの所領を与えられた。秀康からはその思慮深さから信任され、北ノ庄城改築などで活躍した。

秀康の死後はその息子の松平忠直に仕える。大坂の陣の際には忠直に従って徳川方として参戦。旧豊臣家臣だったことから先導役を務めるも、慶長20年(1615年)5月6日の若江・八尾の戦いで松平軍が苦戦し、藤堂高虎軍などを助けられなかっため、徳川家康に忠直は叱責され、そこで好寛は本多富正らと相談した上で軍令を破って、先鋒の前田利常を無視して前に出て天王寺・岡山の戦いでの最終決戦で大戦果を上げた。しかし、好寛は軍令違反の罪を逃れられないと考え、責任を取って翌7日、天満川にて入水自殺した。

法名は顕忠院前正匠作節叟道義居士。墓所は福井県福井市の霊泉寺。