最上駒

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最上 駒(もがみ こま、天正7年(1579年) - 文禄4年8月2日1595年9月5日))は、安土桃山時代女性。父は出羽国山形城主・最上義光。母は釈妙英(大崎義直の娘)。伊達政宗の従妹にあたる。豊臣秀次側室となったが、秀次事件で悲劇的な最期を遂げた。駒姫(こまひめ)とも言われる。

生涯[編集]

最上義光の次女。絶世の美女と称えられ、父母から大いに愛されたという。しかしその噂を聞きつけた時の関白であった豊臣秀次から側室になるように強要されたという。駒を溺愛していた義光は当初はこの縁組が気に入らず、理由をつけて断ったが、秀次は何度も求めたため遂に断れず、せめて駒が15歳になるまでという条件を付けた。ただし、15歳になっても義光は駒を差し出すことを惜しみ、それから2年間も粘ったが、遂に拒否できなくなって文禄4年(1595年)に駒を京都に送り出した。

ところがこの年、秀次は叔父で養父である太閤豊臣秀吉から謀反の嫌疑をかけられて関白職を解任された上、高野山に追放されてそこで切腹を命じられた。いわゆる秀次事件であるが、秀吉は秀次を殺すだけでは飽き足らず、その家臣や妻子に対しても連座を適用して処刑命令を発した。秀次没後の半月後である8月2日、秀次の妻子30人余りが引き回しの上、三条河原で処刑されることになった。駒もその妻子に含まれていたが、駒はまだ上洛したばかりで秀次に侍ったこともなく、側室と言えるかどうかは微妙な位置にあった。駒の処刑を知った義光は驚いて諸大名に駒の助命嘆願への協力を要請し、多くの諸大名からもさすがに助命してはと声が上がりだした。さすがの秀吉も無視できなくなり、助命しようと三条河原に使者を走らせたが、その使者は間に合わず、駒は11番目に処刑されていたという。

この余りの酷い処刑に対し、当時の世間からは「行く末めでたく政道に非ず」と落書までがあったと言われる。

駒は処刑前に辞世の句を残している。それは「うつつとも、夢とも知らぬ、世の中に、す(住むか澄むのこと)までぞ帰る、白河の水」であった。

駒の遺体は山形市専称寺に葬られ、その墓には非業の最期を遂げた駒の霊を慰めるためか、近年に至るまで雑木と草叢の中に鎮められ続けたという。

この事件からしばらくして母の釈妙英は不審死を遂げている。溺愛する駒を失って自殺したとも言われているが定かではない。また義光にまで秀吉は連座を適用して拘禁した。後に許されたが、義光はこの時の恨みを忘れず、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に協力して上杉景勝と戦っている。

駒姫が登場する作品[編集]

外部リンク[編集]