熊谷直之
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熊谷 直之(くまがい なおゆき、? - 文禄4年7月14日(1595年8月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。若狭三方郡大倉見城(井崎城)主。別名は直澄(なおずみ)。官途は従五位下・大膳亮。通称は伝左衛門。なお、伝左衛門と直之は別人説もある[1]。
生涯[編集]
はじめ若狭の守護大名である武田氏に仕えた[1]。武田元明が織田信長に服属した際、直之も信長に服属したものと推測されている[1]。天正3年(1575年)7月に元明に従って上洛し、相国寺にあった信長を訪ねている[1]。同年の越前一向一揆討伐戦では元明と共に海上から参戦した[1]。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも参加した[1]。この頃には若狭の国主には信長の縁戚である丹羽長秀が任命されており、直之も長秀の指揮下にあって馬揃えに参加している[1]。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉に仕えてその甥である豊臣秀次に配属された[1]。秀次から三河西部の高橋郡内で950石を与えられている[1]。
文禄4年(1595年)に発生した秀次事件で秀次の家臣のために連座し、秀次が自害する前日の7月14日に嵯峨二尊院で切腹を命じられた[1]。『川角太閤記』によると、秀吉の譴責使を受けた際に秀次に謀反を勧めたとある。