鳥羽城

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鳥羽城(とばじょう)とは、志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽三丁目)にかつて存在した日本である。

概要[編集]

鳥羽水族館[注 1]のすぐ西にある丘陵地一帯にあった城で、日本では珍しい海城であったといわれる。現在は東側に伊勢湾フェリーの発着する岸壁ができて、山麓一帯に鳥羽市の中心市街が形成されている。

この城は天正年間(1573年1592年)に、織田信長に従った九鬼嘉隆が築城したといわれている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、嘉隆は西軍に属したため、東軍に属した息子の九鬼守隆と敵対し、田城を舞台にして父子で争い、嘉隆は敗れて答志島に逃れて自殺した。これにより、守隆が家督を継いで5万5000石の鳥羽藩主となり、鳥羽城は鳥羽藩の藩庁となった。

しかし守隆の死後、九鬼氏で御家騒動が起こったため、九鬼久隆摂津国三田藩に移され、その後に譜代大名内藤忠重が3万5000石で入る。ところが忠重、内藤忠政を経て、内藤忠勝の時に徳川家綱供養の法会の際に芝増上寺永井尚長を斬殺したことから、内藤氏は改易となった。なお、この忠勝は後に自分と同じ最期を遂げ忠臣蔵で有名になる浅野長矩の叔父にあたる。

その後、土井氏松平氏板倉氏、松平氏と城主が頻繁に入れ替わり、享保10年(1725年)に下野国烏山藩から稲垣昭賢が3万石で入ることでようやく定着。以後、稲垣氏の支配が8代続いて明治維新を迎えた。

2008年まで、二の丸跡に清水栄二が戦前に設計した鳥羽小学校の校舎があり、本丸跡はその運動場だった[注 2]。加えて、城跡周辺は城山公園となって、天守閣の石垣や石塁の一部が現存し、一帯は三重県の史跡に、旧鳥羽小校舎は登録有形文化財に指定されている。

アクセス[編集]

関連項目[編集]

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  1. 1960年代半ばまで、帝国汽船(現・IHI)→神戸製鋼所→神鋼電機(現・シンフォニアテクノロジー)鳥羽工場の用地だったが、手狭になったのと、近鉄志摩線国道167号に用地を提供したため、豊橋と鳥羽市街東寄りに分割移転し、その後、ミキモト真珠島の対岸に旧館があった水族館が現在地に統合移転した。
  2. 鳥羽小学校は2009年に現在の鳥羽市堅神町に移転。

外部リンク[編集]