相撲

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相撲(すもう)とは古来から日本で発達してきた格闘技である。

概要[編集]

勝負は対戦相手を土俵という競技場から追い出すか、足の裏以外の体の一部を地につけるかで決まる。反則として、拳で殴る、蹴る、頭髪を掴む、縦廻しを取る、前袋を取る。凶器を使う。

沿革[編集]

武芸として[編集]

神話の時代から存在した。このときは対戦相手を踏み殺しており、ルールの存在しない荒っぽい殺し合いであった。平安時代にルールが整備され、天覧相撲も行われた。鎌倉時代になると武士の鍛錬として奨励された。室町時代戦国時代でも同様で、競技会も行われた。

江戸時代[編集]

江戸時代になると、辻相撲が盛んになり、競技者の周りに人垣を作り、その中に対戦相手を押し込んでも勝ちとした。[1]しかし、怪我人が出たり、喧嘩が起きるなどしたため、しばしば禁止令が出た。このため、土俵が作られるようになり、競技場も寺院とすることで許可を得た上で行うようになった。これによりプロスポーツ化が進み、大名も力士を抱えるようになった。雷電谷風といった名力士も登場した。ペリーの浦賀来航時には威圧の手段として力士が動員された。

明治時代[編集]

断髪令や公衆の前で裸体になることが禁じられたのに加え、廃藩置県で大名の保護もなくなって大相撲は存続の危機に陥った。しかし、明治天皇が相撲を好んだことから再び東京の大相撲の人気も蘇った。東京と共に関西にも大阪相撲協会ができた。学校や軍隊でも行われるようになった。特に海軍の相撲はアマチュア最強と言われた。

大正時代[編集]

東京の大相撲に優勝制度が設けられ、両国に国技館が建設された。これにより東京の相撲は「国技」と呼ばれるようになった。一方大阪相撲は衰退し、東京の大相撲との合併が取り沙汰され始めた。

昭和戦前[編集]

昭和改元直後に東京と大阪の相撲協会が合併し、国内の大相撲組織は東京の大日本相撲協会に一本化。一本化からしばらくして、力士の待遇改善を訴えた春秋園事件が起き、大相撲界は大混乱に陥った。大日本相撲協会から幕内力士が多数脱退し、大阪で新興勢力の新興力士団と革新力士団を起こした。やがて、脱退力士も大日本相撲協会に復帰して、大阪の2団体は衰退。大相撲人気も盛り返し、双葉山の69連勝といった記録が達成された。

昭和戦後[編集]

戦後直後は成績不振の横綱が目立ち前田山は休場中の野球観戦行動が問われ引責引退。千代の山も大関降格申出をしたが認められず一悶着を起こし、横綱審議委員会が設けられた。1950年代は栃若の活躍で当時開始のテレビ放送も盛んに大相撲を中継し、1958年より大相撲は年6場所15日間で行われるようになった。1960年代は大鵬柏戸といった横綱が人気を集めた。1970年代は輪島北の湖の対決も注目を集めた。両者の引退後の1980年代は千代の富士が土俵を沸かせた一方、対抗馬の筆頭だった双羽黒が脱走騒ぎを起こして引責廃業[2]。双羽黒が幕内最高優勝無しで横綱昇進したことが問題視され、昇進基準が厳しくなって、平成期の横綱不在の遠因となった。

平成[編集]

1991年に千代の富士が引退すると相次いて横綱が引退。一時横綱不在となったが、アメリカ合衆国出身のが史上初の外国人横綱となって不在の空白を埋め、同じくアメリカ合衆国出身の武蔵丸とともにハワイ出身の力士の時代を築くと共に、曙と同期入門の若貴兄弟が共に横綱に昇進して活躍した。前述の横綱の引退後はモンゴル勢と東欧勢が力を付け、朝青龍白鵬日馬富士鶴竜が横綱となり、日本人力士を圧倒した。

現状[編集]

プロスポーツの相撲として年に6回、15日間に渡って行われる大相撲がある。この他に、国民体育大会、学生相撲、インターハイ、実業団相撲といったアマチュア相撲がある。小学校中学校での体育科の正課でもあるほか、部活動の競技でもある。地域の相撲や、儀式での相撲が神社で残っている。

[編集]

  • 居反り
  • 打っ棄り
  • 上手出し投げ
  • 上手投げ
  • 送り出し
  • 押し倒し
  • 押し出し
  • 肩すかし
  • 切り返し
  • 小手返し
  • 小手投げ
  • 三所攻め
  • 下手投げ
  • 吊り出し
  • 波離間投げ
  • 引き落とし
  • 引き倒し
  • 仏壇返し
  • 呼び戻し
  • 寄り切り
  • 寄り倒し********************

その他[編集]

脚注[編集]

  1. キン肉マン、夢の超人タッグ編にリングを大勢の超人で囲むデスマッチが描かれていた。
  2. 双羽黒の騒動は師匠の立浪の側にも原因があり、後の当代立浪継承時にも問題が勃発したが、2019年に双羽黒こと北尾光司氏が亡くなるまで、相撲協会の側から北尾氏の名誉を回復させることは無かった。