相撲
相撲(すもう)とは古来から日本で発達してきた武道であり、格闘技である。
概要[編集]
礼に始まり、礼で終わる。勝負は対戦相手を土俵という競技フィールドから寄りで追い出すか、足の裏以外の体の一部を地につけるかで決まる。残心も重要であるが、国際ルールでは軽視されている。
拳で殴る、蹴る、頭髪を掴む、縦廻しを取る、前袋を取る。武器を使うといった行為は反則行為として負けになることが定められている。
競技団体としては、中世の神事相撲や近世の勧進相撲の系譜を引く日本相撲協会と1946年に純粋アマチュア団体として発足し、日本スポーツ協会傘下の団体である日本相撲連盟がある。
世界相撲選手権や女子の世界新相撲選手権では、日本の相撲ルールに基づく立ち会いや技で競技するものを「SUMO」としている。
沿革[編集]
武芸として[編集]
神話の時代から存在した。このときは対戦相手を踏み殺しており、ルールの存在しない荒っぽい殺し合いであった。平安時代にルールが整備され、天覧相撲も行われた。鎌倉時代になると武士の鍛錬として奨励された。室町時代、戦国時代でも同様で、競技会も行われた。
江戸時代[編集]
江戸時代になると、辻相撲が盛んになり、競技者の周りに人垣を作り、その中に対戦相手を押し込んでも勝ちとした。[1]しかし、怪我人が出たり、喧嘩が起きるなどしたため、しばしば禁止令が出た。
このため、競技場所として土俵が作られるようになり、土俵を寺院内に作り、富籤と同様、各地の寺院が勧進する許可を公儀から得た上で行うようになった(勧進相撲)。これにより力士のプロ化が進み、大名も力士を士分格で抱えるようになった。江戸で行われた勧進相撲では雷電、谷風といった名力士も登場した。マシュー・ペリーの黒船来航時には威圧の手段として力士が動員された一方、街道の関所の通過にあたっては諸芸として相撲を披露する側面も持っていた。
明治時代[編集]
断髪令や公衆の前で裸体になることが禁じられたのに加え、廃藩置県で大名の保護もなくなって大相撲は存続の危機に陥った。しかし、明治天皇が相撲を好んだことから再び東京の大相撲の人気も蘇り、1889年に東京大角力協会が発足した。学校や軍隊でも行われるようになり、特に大日本帝国海軍の相撲はアマチュア最強と言われた。
関西でも商人の経済力を背景にした大坂相撲を起源にした大阪相撲協会ができ、大正期まで合併興行はあったものの、日本のプロ相撲はデュアル体制だった。
大正時代[編集]
時事新報社によって、東京の大相撲に個人優勝制度が設けられ、両国に国技館が建設された。これにより東京の相撲は「国技」と呼ばれるようになった。1917年に横綱昇進した大錦卯一郎は駆け引きを嫌いスピード速攻で勝負を付けたことで、大相撲のプロスポーツ化の端緒を切った。
一方大阪相撲は大阪協会内部での紛擾もあって衰退し、東京の大相撲との合併が取り沙汰され始めた。
昭和戦前[編集]
大正期の軍部や摂政宮の要請もあり、昭和改元直後に東京と大阪の相撲協会が合併し、国内の大相撲組織は、軍人が会長に就いた東京の大日本相撲協会に一本化。一本化からしばらくして、力士の待遇改善を訴えた春秋園事件が起き、大相撲界は大混乱に陥った。大日本相撲協会から幕内力士が多数脱退し、大阪で新興勢力の新興力士団と革新力士団を起こした。やがて、脱退力士も大日本相撲協会に復帰して、大阪の2団体は衰退。大相撲人気も盛り返し、双葉山の69連勝といった記録が達成された。
昭和戦後直後[編集]
戦後直後は成績不振の横綱が目立ち前田山は休場中の野球観戦行動が問われ引責引退。千代の山も大関降格申出をしたが認められず一悶着を起こし、横綱審議委員会が設けられた。1950年代は栃若の活躍で当時開始のテレビ放送も盛んに大相撲を中継した。
年6場所制以降[編集]
1958年より大相撲は年6場所15日間で行われるようになった。1960年代は大鵬、柏戸といった横綱が人気を集めたが、柏戸の引退で人気低迷。1970年に北の富士と玉の海正洋が昇進し「北玉時代」を期待されたが、玉の海が虫垂炎を無理して早逝して、また人気低迷となり、新弟子も中学卒業まで検査を受けさせないこととなった。
1970年代後半は輪島、北の湖の対決も注目を集めた。そんな中で典型ソップ型の千代の富士が1981年に幕内最高優勝を遂げ、両者の引退後の1980年代は千代の富士がほぼ独り舞台で土俵を沸かせた一方、対抗馬の筆頭だった双羽黒が脱走騒ぎを起こして引責廃業[2]。双羽黒が幕内最高優勝無しで横綱昇進したことが問題視され、昇進基準が厳しくなって、平成期の横綱不在の遠因となった。
平成[編集]
1991年に千代の富士が引退すると相次いて横綱が引退。一時横綱不在となったが、アメリカ合衆国出身の曙が史上初の外国人横綱となって不在の空白を埋め、同じくアメリカ合衆国出身の武蔵丸とともにハワイ出身の力士の時代を築くと共に、曙と同期入門の若貴兄弟が共に横綱に昇進して活躍した。前述の横綱の引退後はモンゴル勢と東欧勢が力を付け、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜が横綱となり、日本人力士を圧倒した。一方、アマチュア相撲の選手が角界入りするケースも増えた。
詳細は「力士と学歴」を参照
現状[編集]
- 男子プロスポーツの相撲として年に6回、15日間に渡って行われる大相撲がある。
- 国内男子アマチュア相撲最高峰の試合としては12月第一日曜日に行われる全日本選手権がある他に、国民体育大会、学生相撲、インターハイ、実業団相撲といったアマチュア相撲の大会がある。
1950年代までの全日本選手権は、軍部最強であった海軍相撲の名残もあり、現在のように優勝者が大相撲入りすることは憚られ、野球のノンプロ同様、独自のスポーツ文化を形成した。 - 田中英壽が発起人となって世界相撲連盟が作られ、国外でも行われる世界選手権では廻しの下に規定のパンツを着用して競技を行う。
- 規定のレオタード着用で競技をする女子新相撲がある。
- 小学校、中学校での体育の正課でもあるほか、部活動の競技でもある。
- 小学生対象のわんぱく相撲大会があり、地域の相撲や、儀式での相撲が神社で残っている。
技[編集]
怪我[編集]
対戦相手と直接体をぶつけることで怪我が発生しやすい。準備運動や受け身をしっかりと行うことが大切である。
その他[編集]
日本国内や国外でも、琉球角力、ブフ(モンゴル相撲)、韓国のシルムといった類似格闘技があるが、立ち会いが組み手など、大きく異なるルールがある。