浅井三代記

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

浅井三代記(あざいさんだいき)とは、近江国北部の戦国大名である浅井氏に関する軍記である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は其阿雄山(遊山)。この人物は近江国木之本浄信寺僧侶であり、江戸時代前期から中期にかけての人物である。成立年代については元禄元年(1688年)頃と見られている。なお、この著書は小瀬甫庵の『甫庵信長記』を参考にしたようで、著者の雄山がわざわざ注記を付けてそれを認めるような記述をしている。

別称は『浅井三代軍記』(あざいさんだいぐんき)、『浅井軍記』(あざいぐんき)。

内容[編集]

時代により巻数が異なっている。全15巻あるいは全18巻。浅井家三代とは、戦国大名であった浅井亮政浅井久政・浅井長政の3代を指す。

以下は18巻の場合についてである。

  • 1巻 - 南北朝時代から話が始まる。戦国時代になり、浅井亮政の登場までが語られている。年代的には永正7年(1510年)まで。
  • 2巻 - 浅井亮政の台頭について語られる。
  • 3巻 - 浅井亮政が京極氏の家中での争いについて語られる。
  • 4巻 - 亮政と京極氏の争いについて語られる。
  • 5巻 - 亮政が朝倉貞景の援軍を得て京極氏との争いに勝利することが語られる。
  • 6巻 - 京極氏が六角定頼の援軍を得て逆襲。亮政は敗れて朝倉氏に援軍を求めて勝利することが語られる。
  • 7巻 - 亮政の逆襲。京極氏から人質を取り、坂田郡など諸郡を制圧することが語られる。
  • 8巻 - 定頼の逆襲により亮政は危機に陥るが、家臣の身代わりによって何とか勝利することが語られる。
  • 9巻 - 定頼は美濃国斎藤道三と連携して亮政を攻めようとする。しかし朝倉宗滴の援軍を得た亮政に敗れて撤退。大永5年(1525年)に合戦があったことを記録しているが、著者は資料の不足を理由に省略している。大永6年(1526年)4月に長男・新三郎高政が早世して気落ちした亮政は、器量に疑問を持っていた次男・久政に天文8年(1539年)に家督を譲り隠居し、その7年後に52歳で死去するまでが語られる。
  • 10巻 - この巻から2代目・久政について語られる。まず、久政は長男の高政に比較して余りに暗愚で亮政からもその実力を疑問視されていた。その暗愚は諫言する重臣・大橋秀元切腹させたことでよく示されている。秀元は久政に愛想を尽かし、切腹する前に見込みがあった久政の長男・長政に書置きを残して死去する。その後、六角義賢との対応をめぐり久政・長政は対立。家臣の大半は長政を支持し、久政は隠居。著者は「久政が家督にあった22年余りの間、何も特筆すべきことがなかった。久政は軍配を取ることもわずかで、多くの人たちから嘲笑されることのみが多かった」と酷評している。
  • 11巻 - 長政が家督を継承し、六角氏と戦うために近江南部に軍を進める。そして勝利して武名を高める(野良田の戦い)。その後、記事は3年間を無視して永禄6年(1563年)に至り、織田信長と連携して美濃国に攻め入る。しかし永禄7年(1564年)に六角氏が浅井領に攻め入り、留守の久政の命令で長政は引き返した。
  • 12巻 - 信長と長政の同盟が成立し、信長は妹のお市の方を長政に嫁がせる。永禄10年(1567年)、足利義昭が信長の庇護下に入るまでが語られる。
  • 13巻 - 信長が義昭を奉じて上洛し、長政もこれに協力する。しかし元亀元年(1570年)、信長が朝倉義景を攻めたため、長政は朝倉氏との長年の関係を理由に信長を裏切り、反旗を翻して信長は岐阜城に撤退した。
  • 14巻 - 姉川の戦い前夜に関する情勢について語られる。
  • 15巻 - 姉川の戦い。その後の石山戦争の開始で信長が摂津国に出陣した隙を突いて、近江に残っていた森可成を討つ。しかし信長が引き揚げてきたので、長政らは比叡山に逃れる。
  • 16巻 - 志賀の陣。元亀3年(1572年)3月までの信長との戦い。竹中重治の善戦により長政が敗れたことが語られている。
  • 17巻 - 元亀3年(1572年)7月からの信長の戦いから始まり、武田信玄西上作戦が始まる。信玄に対しては柴田勝家が向かったことになっており、勝家は武田軍を見ただけで撤退したことになっている。しかし、武田軍は撤退し、浅井の運命が極まる中、遂に阿閉貞征が裏切る。
  • 18巻 - 信長との最後の戦い。長政は最早これまでと覚悟し、お市を信長の下に送り返し、天正元年(1573年)9月1日に自害した。父の久政は8月29日に自害し、浅井家は滅亡した。長政の子である万福丸(母はお市になっている)も殺された。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]