日本青年協議会
日本青年協議会(にほんせいねんきょうぎかい)は、1970年に結成された右翼団体[1]。略称は青協[2]、日青協。「民族派青年団体」[3]「新右翼」の主な団体の一つ[4]。2005年に包括関連組織として日本協議会を結成した。日本協議会、日本青年協議会の機関誌は『祖国と青年』。日本協議会会長は椛島有三。
概要[編集]
1970年11月3日に全国学生自治体連絡協議会(全国学協)の卒業生が社会人組織として結成した[5]。全国学協の上部組織としてこれを指導してきたが、1973年9月10日に決別した[2]。これにかわる学生組織として1974年3月に反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)を結成した[6]。大日本帝国憲法への原点回帰および日教組批判を通じ「教育正常化」を目指す活動に取り組み[2]、特に教育系学生や青年教員への働きかけに力を入れ、1974年11月に日本教育研究所を結成した[7]。1977年に生長の家の代表として「日本を守る会」を取り仕切っていた村上正邦が、同じ生長の家信者が中心となっている日青協を「守る会」の事務局に参加させた[8][7]。村上正邦によると、「守る会」の事務局は、事実上、生長の家と明治神宮の2本柱で構成されていた[9]。日本会議によると、日青協は「守る会」の事務局には参加しておらず、1978年に結成された「元号法制化実現国民会議」の事務局を委嘱された。1981年に同会議が改組して結成された「日本を守る国民会議」、1997年に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が統合して結成された日本会議の事務局も引き続き委嘱されている[10]。かつては生長の家青年局と連携関係にあり[11]、日青協と反憲学連は生長の家学生会全国総連合(生学連)と一体の関係にあったが[12]、1983年の生長の家政治連合(生政連)の活動停止、その後の教団の愛国路線からの路線変更により、宗教法人生長の家とのつながりはなくなった。2005年に包括関連組織として日本協議会を結成した。
当初は事務所を東京都渋谷区神宮前1-7-10原宿ハイデンス内に置いていた。1987年10月20日に東京都渋谷区神宮前5-38-8太陽マンション内に移転した[13]。1994年4月1日に東京都目黒区青葉台3-10-1青葉台上毛ビル(現・パシフィックマークス青葉台)602号に移転した[14]。日本会議事務総局は同じフロアの601号室にあり、両者の間に仕切りはないとされる[15][16]。
下部組織[編集]
- 反憲法学生委員会全国連合(反憲学連) - 1974年3月結成
- 日本教育研究所 - 1974年11月結成
- 日本文化研究所 - 1975年3月結成
- 全日本学生文化会議 - 1984年11月結成
- 日本政治経済研究所 - 1992年設立[17]
メンバー[編集]
俵義文によると、結成を中心になって推進したのは椛島有三、衛藤晟一、高橋史朗、伊藤哲夫、百地章、松村俊明、宮崎正治ら[18]。結成当時の役員は委員長・衛藤晟一、副委員長・酒井文雄、書記長・椛島有三、政策部長・伊藤哲夫、事務局長・米良紘一郎、編集局長・松村俊明[19]。『右翼・民族派事典』(1976年)によると、初代委員長は衛藤晟一[20]。鈴木邦男によると、初代委員長は吉村和裕[21]。
『右翼・民族派事典』(1976年)の日青協の項目によると、役員は委員長・衛藤晟一、副委員長・酒井文雄、書記長・椛島有三、政策部長・伊藤哲夫、事務局長・米良紘一郎、編集局長・松村俊明[2]。
『祖国と青年』によると、衛藤晟一は1973年から2年間委員長を務め、その後副委員長を務めた[22]。1976年2月時点で椛島有三が委員長、柳田恵三が政策部長を務めていた[23]。1981年3月時点で椛島有三が代表を務めていた[24]。
- 『祖国と青年』編集長
- 松村俊明(1975年1月の第18号~1981年1月の第49号) - のち「日本を守る国民会議」事務局次長、日本会議事務局長・常任理事。
- 西澤和明(1981年3月の第50号~1986年8月の第95号) - のち日青協書記長、日本会議常任理事。
- 出島正人(1987年7月の第106号~1991年7月の第154号) - のち日青協書記次長[25]。日本会議組織強化部長[26](「全国組織局組織強化部長」[27])、組織部長[28](「本部組織部長」[29]「事務総局組織部長」[30])、全国組織運動局長[31]。
- 江崎道朗(1991年8月の第155号~1997年8月の第227号) - のち日本会議専任研究員。
- 打越和子(1997年9月の第228号~2001年) - 旧姓・田中[32][33]。
- 大葉勢清英(2001~2010年) - 2010年より日青協書記長[34]。2016年より日青協代表。日本協議会副理事長[35]、日本会議憲法改正推進委員[36]。
- 鈴木由充(2010年8月~)[37]
- 日青協のメンバー
※50音順。著書のある人物など。
- 北村芳正 - 「日本を守る国民会議」「日本を守る長崎県民会議」職員。「日本会議長崎」「長崎日の丸会」会員。「長崎の原爆展示をただす市民の会」事務局長[38]。
- 多久善郎(日青協学生局長・事務局長・研修局長・組織局長、日本協議会理事長) - 日本会議熊本理事長、日本会議全国組織本部長。
- 長尾敬[39][40]
- 中山直弘(日青協代表)[41]
- 三荻祥(『祖国と青年』編集部)[42]
- 森藤左ェ門(日本政治経済研究所経済人懇話会会長)[43]
- 日青協の顧問
- 関連人物
西尾幹二は自身のブログで2006年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」の宮崎正治事務局長の解任に反対した4人の理事(新田均、内田智、勝岡寛次、松浦光修)と宮崎について「彼らは昭和44年5月発足の全国学生連絡協議会という早大を中心とした右派系学生運動の一団につながる」と述べている[45]。また4人の理事のうち3人と宮崎は「保守学生運動の旧い仲間」[46]「旧「生長の家」系学生運動…の参加者」[47]だと述べている。共著『保守の怒り』では「このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、4人が一体となって動いていたことは間違いありません」と述べている[48]。俵義文によれば、西尾の言う「保守学生運動」とは日青協のことである[49]。
全日本学生文化会議を脱退した早瀬善彦は「学者を目指してたんで、僕には、『先輩には高橋史朗さん 新田均さん 勝岡寛次さんがいる。ああいう学者を目指せ』って言ってきました。」と証言しており、菅野完は「早瀬氏の証言で彼らが日本青年協議会と関連が深い人物であることが改めて判明した」と述べている[50]。清洲山王宮日吉神社の三輪隆裕宮司は「新田氏は、早稲田大学の出身であるが、在学時、谷口雅春氏の思想に傾倒し、それを実践するニューソート研究会の会員であり、生長の家学生会全国総連合に所属し、その後、日本青年協議会の一員となった」と述べている[51]。
出典[編集]
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、69頁
- ↑ a b c d 社会問題研究会編著『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、200頁
- ↑ 高木正幸『右翼――活動と団体』土曜美術社、1989年、25頁
- ↑ 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、230-231頁
- ↑ 「三島由紀夫・森田必勝両烈士義挙三十周年特別企画「日本の歴史と文化と伝統に立って」掲載にあたって」『祖国と青年』第31巻第11号(通巻266号)、2000年11月
- ↑ 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、333-334頁
- ↑ a b 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、20頁
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、45-47頁
- ↑ 魚住昭『証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも』講談社、2007年、121頁
- ↑ 濱田浩一郎『日本会議・肯定論!』たちばな出版、2018年、51頁
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、249-251頁
- ↑ 社会問題研究会編著『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、224頁
- ↑ 「編集後記」『祖国と青年』第109号、1987年10月
- ↑ 「編集後記」『祖国と青年』第25巻第4号(通巻187号)、1994年4月
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、155頁
- ↑ 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、41頁
- ↑ 日本青年協議会・日本協議会とは 日本青年協議会・日本協議会
- ↑ 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、36頁
- ↑ 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、18頁
- ↑ 社会問題研究会編著『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、519頁
- ↑ 鈴木邦男『新右翼――民族派の歴史と現在』彩流社、2005年、289頁
- ↑ 「動脈」『祖国と青年』第27号、1977年2月
- ↑ 「動脈」『祖国と青年』第22号、1976年2月、27頁
- ↑ 椛島有三「国家の明確な指針持つ集団めざして」『祖国と青年』第50号、1981年3月
- ↑ 「祖青〈伝言板〉」『祖国と青年』第29巻第5号(通巻236号)、1998年5月
- ↑ 各界より 日本会議
- ↑ 「日本会議、名張支部設立へセミナー」『産経新聞』三重版、2007年9月3日
- ↑ 平成27年第1回佐渡市議会定例会会議録(第5号)(PDF)355頁
- ↑ 【全国100都市縦断「国民運動セミナー」】 日本会議埼玉、2008年7月27日
- ↑ 平成二十七年新春役員総会が開催さる 日本会議愛知、2015年2月26日
- ↑ 令和三年度総会(事業報告会)を開催 日本会議神奈川湘南西支部
- ↑ 打越和子氏紹介 日本会議愛媛県本部
- ↑ 打越和子氏の松山での講演会 日本会議愛媛県本部
- ↑ 6月例会のご案内 日本会議東京都中野支部
- ↑ 11月12日【広島】日本の誇りセミナー「世界秩序崩壊、日本自立への課題」 日本会議広島
- ↑ 【憲法フォーラムin尾道】平成30年5月3日 しまなみ交流館大会議室 日本会議広島尾道支部
- ↑ 8月15日 戦歿者追悼平和祈念の集い(広島) 日本会議広島
- ↑ 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、9、11頁
- ↑ 東條由布子さんとのこと 長尾たかしの・・・未来へのメッセージ、2013年2月20日
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、119頁
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、253頁
- ↑ 三荻祥編著、嶺井政治、伊藤陽夫監修『沖縄戦跡・慰霊碑を巡る』明成社、2014年
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、211頁
- ↑ 『祖国と青年』第23巻第8号(通巻167号)、1992年8月
- ↑ 怪メール事件(四)―― 西尾幹二のインターネット日録、2006年4月22日
- ↑ 「つくる会」顛末記 西尾幹二のインターネット日録、2006年3月7日
- ↑ 続・つくる会顛末記 (五)の3 西尾幹二のインターネット日録、2006年6月6日
- ↑ 西尾幹二、平田文昭『保守の怒り――天皇、戦争、国家の行方』草思社、2009年、263-264頁、『保守の怒り』正誤表
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、11-12頁
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、157頁
- ↑ 神社本庁(日本会議)の見果てぬ夢 清洲山王宮日吉神社、2016年10月11日
関連項目[編集]
関連文献[編集]
- 猪野健治「神道系中小教団の"新民族派"宣言」(『現代の眼』第20巻第11号、1979年11月)
- 堀幸雄『戦後の右翼勢力』(勁草書房、1983年、増補1993年)
- 林雅行『天皇を愛する子どもたち――日の丸教育の現場で』(青木書店、1987年)
- ケネス・ルオフ『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』(木村剛久、福島睦男訳、共同通信社、2003年/岩波書店[岩波現代文庫]、2009年)
- 塚田穂高『宗教と政治の転轍点――保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社、発売:共栄書房、2015年)