全国学生自治体連絡協議会

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

全国学生自治体連絡協議会(ぜんこくがくせいじちたいれんらくきょうぎかい)は、1969年に結成された民族派学生団体。略称は全国学協

概要[編集]

1966年に生長の家の信徒で長崎大学教育学部生の安東巖椛島有三ら8名の学生が「学園正常化」のために「長崎大学有志の会」を結成した[1][2]。1966年10月の教養部自治会選挙で左翼学生を破り、国立大学初の民族派の自治会が誕生した[3][4]。生長の家信徒たちは反帝学評を中心とする左翼学生が占拠して授業中断が続いていた長崎大学の「正常化」に成功し[5][2]、1967年に統一協会系の学生組織「原理研究会」(原理研)や小田村寅二郎が主宰する「国民文化研究会」(国文研)系サークルの「信和会」なども糾合して長崎大学学生協議会(長大学協)を結成した[4]

一方、早稲田大学では、鈴木邦男率いる生長の家の学内サークル「光明思想研究会」や「日本文化研究会」「雄弁会」「国策研究会」「土曜会」などの保守系サークルが全学ストに対抗するため早稲田大学学生有志会議(有志会)を結成した[6][7]。1966年3月6日に有志会は発展的に解消し、早稲田大学学生連盟(早学連)を結成した。早学連は一般学生の支持を取り付けて、1966年4月に全学ストの解除に成功した。この功績により、1966年5月1日に結成された生長の家学生会全国総連合(生学連)の初代書記長に鈴木が選出された[6]。1966年11月に早学連は他の大学にも呼びかけて日本学生同盟(日学同)を結成した。鈴木も結成に参加したが、生学連の役員を務めていたこともあり、結成後は参加しなかった[7]。1968年5月12日に生学連、日学同、全日本学生評議会(全学評)、国民協会学生部、全国大学原理研究会(全大原研)、全日本国民連盟学生部(全国連学生部。1968年12月脱退)の6団体が連絡機関として全国学生団体協議会(全学協)を結成した[8]。しかし、日学同と生学連との間で対立が起こり、両者は早くも同年7月に決別した[9]

長崎大学の「学園正常化」の動きは生学連のネットワークを通じて全国に広まった[4]。1968年3月19日に結成された九州学生自治体連絡協議会(九学協)を皮切りに、中国、関西、東海、東北、関東、東京、北海道、四国と各ブロック別に学協(学生協議会)が結成され、1969年5月4日に全国連合組織として全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が結成された[10]。全国251大学、約2,700人が参加[11]。機関紙は『全国学生新聞』、機関誌は『アヴァンギャルド』[12]。全国学協の結成には生学連とともに統一協会系の原理研も中心となっていたとされる[13][14]。日学同は生学連や原理研のような宗教団体とは体質が異なるために生学連が中心となって結成された全国学協に参加しなかったとされる[15]。全国学協の結成で全学協は有名無実化した[16]。全国学協の初代委員長には鈴木邦男が選出されたが、初代書記長の安東巖と対立し、1ヶ月後に解任された[17]

1969年11月3日に全国学生自治会総連合(民族派全学連)結成準備会(犬塚博英委員長)を結成し、1970年5月4日に民族派全学連の結成を予定していたが、最終的には見送られた[1]。1970年5月4日に高校生組織として全国高校生協議会総連合(全国高協。西澤和明委員長)を結成した[11][18]。1970年7月に全国学協は生学連から離脱して独自路線への転換を図り[12]、1972年7月の第4回全国大会で全国学生協議会連合(全国学協)に改称した[19]。機関紙『撃攘』を発行し[1]、後に「学協撃攘派」「撃攘派」とも呼ばれた[20]。一方、全国学協OBは1970年11月3日に社会人組織として日本青年協議会(日青協)を結成し、全国学協の上部団体となった。三島裁判闘争後、全国学協は日青協と対立し[21]、1973年9月10日に日青協と決別した[19]。1973年11月に全国学協OBの岸川守らが草莽社を結成し、全国学協の上部団体となった[22]

撃攘派は活動が低迷し、70年代後半から有名無実化した[12]。ウィキペディアによると、撃攘派は1985年頃まで長崎大学(「長大学協」)と國學院大學(「日本民族解放戦線」)で活動していたことが確認されている[23]。一方、日青協は全国学協にかわる学生組織として1974年3月に反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)を結成した。議長は宮崎正治(早大)、委員長は西澤和明(早大)。機関紙は『先駆者』[12]。日青協は生学連を指導する生長の家青年局と連携関係にあったが、生学連は生長の家の学生信徒の団体であって学生運動組織ではないため、反憲学連を結成する必要があった[21]。反憲学連は90年代以降は活動が確認されていない[24]

出身者[編集]

※生年順。

出典[編集]

  1. a b c 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、180-181頁
  2. a b 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、16-21頁
  3. 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、271頁
  4. a b c 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、23-24頁
  5. 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、44頁、第6章
  6. a b 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、275-278頁
  7. a b 愛国から憂国へ、そしてナショナリズムを疑った鈴木邦男さん 安田浩一ウェブマガジン「ノンフィクションの筆圧」、2023年1月28日
  8. 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、181-182頁
  9. 兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和 続編』兵庫県警察本部、1999年、537頁
  10. 相田浩「燃える民族派学生戦線」『経済往来』第21巻第9号、1969年9月
  11. a b c 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1970年版』日本社会党機関紙局、1970年、881-882頁
  12. a b c d 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、333-334頁
  13. 第61回国会 衆議院 地方行政委員会 第30号 昭和44年5月9日
  14. 『宗教年鑑 昭和44年版』文化庁、1970年、23頁
  15. 「わが国学生運動の現状」『内閣官房調査月報』第14巻第11号(通巻167号)、1969年11月
  16. 「右翼・民族派運動の現状について―昭和四十六年を中心として―」『内閣官房調査月報』第17巻第4号(通巻196号)、1972年4月
  17. 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、282頁
  18. 『宗教年鑑 昭和45年版』文化庁、1971年、20頁
  19. a b 社会問題研究会編著『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、225-226頁
  20. 「動脈」『祖国と青年』第7巻第24号、1976年7月
  21. a b 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、249-251頁
  22. 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、333-334、650頁
  23. 全国学生自治体連絡協議会
  24. 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、143頁
  25. a b 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、109頁
  26. 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、116頁
  27. 百地章「「歴代天皇を憶念する」といふこと」『祖国と青年』第30巻第8号(通巻251号)、1999年8月
  28. a b 神社本庁(日本会議)の見果てぬ夢 清洲山王宮日吉神社、2016年10月11日
  29. 全国学協編『"憂国"の論理』日本教文社、1970年
  30. 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、33、45頁
  31. 土屋たかゆきのわが闘争 展転社

関連項目[編集]