宮崎正治
宮崎 正治は、反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)議長、「新しい歴史教科書をつくる会」事務局長[1][2]、日本教育再生機構常務理事[1]。2016年没。
経歴[編集]
1969年、早稲田大学文学部に入学[3]。4年生の2月に全国の学生運動のリーダーになっていた高橋史朗と初めて出会い、その後、学生運動、青年運動を共にした[4]。1974年3月、反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)初代議長[5]。椛島有三、衛藤晟一、高橋史朗、伊藤哲夫、百地章、松村俊明らとともに1970年11月に結成された日本青年協議会(日青協)の中心メンバーとなり[6]、日青協中央書記長を務めた[7][8]。また1977年夏の「元号法制化推進全国縦断キャラバン」のキャラバン隊長[9]、1978年夏の「元号法制化全国縦断キャラバン」の西日本A隊隊長[10]、1979年夏の「元号法成立全国縦断キャラバン」の西日本隊隊長[11]、1980年夏の日本を守る国民会議(準)のキャラバン隊隊長[12]、日本文化研究所所員を務めた[13]。
菅野完によれば、宮崎は「日本青年協議会の元幹部。一度運動からパージされたがのちに許され復帰し、現在は日本教育再生機構の常務理事」だとされる[14]。1990年11月から1996年6月まで『祖国と青年』に執筆がなく、1992年1月から1995年10月まで広告も含めて同誌に名前が登場しない。1995年11月の同誌の伝言板のページで市民講座の講師を務める「歴史研究家」として名前が再登場する[15]。1996年6月の伝言板のページによると「歴史評論家」の肩書きで「祖青の会」のセミナーで講師を務める[16]。1996年7月に「日本文化研究所」の肩書きで吉田松陰に関する論考を執筆している[17]。
2001年10月「新しい歴史教科書をつくる会」3代目事務局長に就任[18]。2006年1月の理事会で宮崎事務局長の解任を主張する西尾幹二名誉会長・藤岡信勝副会長グループと八木秀次会長グループが対立。2006年2月の理事会で「財政的損害を生じさせた」こと、八木や宮崎らが理事会の承諾なく中国に行って現地の知識人と論争したこと、それを『正論』に発表したことが理由で事務局長を解任され、退職(事実上の解雇)[19]。「つくる会」の内部情報などによれば、西尾・藤岡が2005年9月に教科書採択が不振に終わった責任を宮崎事務局長に押しつけて解任しようとしたが、日本会議派の内田智、勝岡寛次、新田均、松浦光修理事が反対し、西尾・藤岡グループと激しく対立した。八木によれば、宮崎事務局長が「会に財政的損害を生じさせた」という「コンピューター問題」は冤罪だった[20]。西尾によれば、「つくる会」幹部の新田、勝岡、内田の3人と事務局長の宮崎は「生長の家活動家」であり、「宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて」、松浦を加えた4人の幹部に「会はすんでのところで乗っ取られかか」った[21]。
2006年10月に「つくる会」を退会した八木元会長グループが日本教育再生機構を設立し、事務局長に就任[22]。2007年7月に教育再生機構が設立した「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」(教科書改善の会)の賛同者[23]。上杉聰によれば、「二〇一五年大阪のフジ住宅が社員を動員し展示会場のアンケート不正記入させた事件を指導したのが宮崎であったという」[24]。
2016年5月死去。日本教育再生機構の機関誌『教育再生』が2017年から発行されなくなり、公式ウェブサイトも削除され、右派教科書運動の動きが急速に衰退したのは、宮崎の死去が大きいとされる[24]。
上杉聰によれば、宮崎は「二〇〇五年から八木を表に立てながら実質的に日本会議の教科書運動の牽引者であった」「全共闘運動に対抗して作られた生長の家「反憲学連」の元委員長で、日本会議事務局で活動を継続してきた」[24]。俵義文によれば、宮崎は日本会議の中心メンバー[6]。
出典[編集]
- ↑ a b 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、18-19頁
- ↑ 藤生明『ドキュメント日本会議』ちくま新書、2017年、105-106頁
- ↑ 宮崎正治「戦後の精神像」『祖国と青年』第15号、1974年5月
- ↑ 宮崎正治「同憂通信 ある道友の留学に思う」『祖国と青年』第46号、1980年5月
- ↑ 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、333-334頁
- ↑ a b 俵義文『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』花伝社、2016年、41頁
- ↑ 「動脈」『祖国と青年』第26号、1976年12月
- ↑ 「動脈」『祖国と青年』第34号、1978年4月
- ↑ 「元号法制化推進全国縦断遊説報告――元号法制化へ全国キャラバン!!〈活動記録〉――熱誠の要望!地方議会を動かす」『祖国と青年』第31号、1977年10月
- ↑ 椛島有三、松岡光、宮崎正治、坂本杲「巻き起こる法制化の声――キャラバン隊長大いに語る」『祖国と青年』第37号、1978年9月
- ↑ 宮崎正治、久留島学「元号法成立全国キャラバン報告座談会――新たな国家指標を求めて――キャラバン隊員は語る」『祖国と青年』第43号、1979年11月
- ↑ 宮崎正治「同憂通信 全国縦断キャラバンを終えて」『祖国と青年』第54号、1981年9月
- ↑ 「祖青〈伝言板〉」『祖国と青年』第29巻第9号(通巻240号)、1998年9月
- ↑ 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、2016年、154頁
- ↑ 「祖青〈伝言板〉」『祖国と青年』第26巻第11号(通巻206号)、1995年11月
- ↑ 「祖青〈伝言板〉」『祖国と青年』第27巻第6号(通巻213号)、1996年6月
- ↑ 宮崎正治「連載――歴史散歩4まごころの人――吉田松陰の誠の哲学をめぐって」『祖国と青年』第27巻第7号(通巻214号)、1996年7月
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、59-60頁
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、9-10頁
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、11-12頁
- ↑ 西尾幹二、平田文昭『保守の怒り――天皇、戦争、国家の行方』草思社、2009年、263-264頁、『保守の怒り』正誤表
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、24頁
- ↑ 俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史の偽造――正念場の歴史教科書問題』花伝社、2008年、40頁
- ↑ a b c 田中信幸「寄稿 二〇二〇年中学校教科書採択をふり返る」共産主義者同盟(統一委員会)、2021年3月
関連文献[編集]
- 松井嘉和監修、日本文化研究所編『大嘗祭の思想と歴史』(日本文化研究所、1990年)