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葦津珍彦

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年7月17日 - 1992年6月10日)は、神道思想家。

柳田・折口との関係[編集]

神社本庁草創期の教学形成過程において、柳田国男折口信夫民俗学的な神道論の影響力を排除した[1][2][3][4]。折口は1947年2月2日に神社本庁創立1周年を記念して「民族教より人類教へ」と題する講演を行い、神道は天皇との関係から独立し、世界宗教へと発展する可能性があると主張した[5]。柳田は1946年から1947年にかけて新国学談と銘打った三部作『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』(いずれも小山書店)を刊行し、山宮と里宮の祭祀形態を通して山が祖霊の留まる場所であることを論証し、神社の起源は氏の神、つまり祖霊を祭ることだったと結論づけた[2]。また柳田は中野重治が参議院議員選挙に立候補した際、枢密顧問官でありながら1947年4月23日付の『アカハタ』に「私は共産党へ投票する」との談話を発表した[6]

神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、1971年)によると、折口の講演について「敵国の占領下、天皇制批判の嵐が吹き荒び、皇室が危機に瀕した時期に、神社人が皇室から「解放された」などと積極的に力説することは同感できぬ」とする「本庁評議員」の抗議に対し、神社本庁当局は「この折口学説は一参考に過ぎず、神社本庁がこの説を公認するものではない」と釈明した[7]澁川謙一「戦後、神道の歩み」(神道文化会編『明治維新 神道百年史 第1巻』神道文化会、1984年)にほぼ同じ文章があり、折口の講演に抗議したのは「葦津評議員」だと個人名を明記している[8]

葦津は神社本庁教学部長だった澁川謙一に宛てた1977年5月12日付の私信「神道教学についての書簡」[注 1]において、折口や柳田の影響が神社本庁に及ばないよう政治的工作を行っていたことを告白している[2][4]。葦津は「靖國神社護國神社から明治神宮にいたる統一国家の神々」は解体するが、「村の古俗神社」は自由放任するというGHQの神道政策に迎合した折口柳田は「利敵者」「曲学阿世」であると厳しく批判している[9]。葦津によると、「昭和二十二年の二月から五月からまで、私は専ら折口反対に力をそそいで、折口博士と私的に親友だった宮川宗徳神社本庁の総長を説得するに成功した」という[10]。また1953年の伊勢神宮の戦後初の式年遷宮のアピール文を宮川総長が柳田に依頼しているところに居合わせ、それを横取りした。柳田に「もし書かせてをれば、遷宮の古俗に対する深い学識ある文ができてゐたかもしれない。だがそれは国民を解体して村民にしようとする新国学流になるのは分りきってゐた」という[11]。「神道の近代化ならば、明治神道に学べ。今の議論は、すべてこの真実の近代化を嫌って、未開時代への逆転が発想となっている」として『神社新報』の誌面から折口人類教の系列のものを排除し、「明治神宮と靖國神社を格別に重んじた」という[12]

武田崇元によると、葦津が折口や柳田など民俗神道派とのヘゲモニー闘争に勝利したことで、日本会議につながる神社本庁のイデオロギーが決定づけられた[2]。武田はその核心を「国家管理なき国家神道」と称している[3]。しかし、1986年に『神国の民の心』(現代古神道研究会、発売:島津書房)を刊行した頃から、それまでとは「ほとんど真逆の奇妙な本音」を漏らし始めた[2]。同書所収の「私も神道人の中の一人である」[注 2]でこれまで「神道の社会的防衛者」として黒いものでも白いと強弁してきたが、後継者が現れたことや自身の老化もあり、その任務を解除すると述べた[2]。「古神道と近世国学神道」[注 3]で古代の神道の本質的要素は神憑りであるとし、本居宣長賀茂真淵は世俗的合理主義者であるため、非宗教化された明治の国家神道と相性がよく重宝されたと述べた[2]。「皇祖天照大御神――神道新話」[注 4]で神道はアニミズム信仰に立ち戻り、シャーマンを重視すべきだと述べた[2]。1987年に刊行した『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)は「神社は国家の宗祀」であることを肯定しているものの国家神道批判に読み替えることが可能である[2]

斎藤英喜によると、葦津は「天皇が「祖宗」より継承した、伊勢神宮をはじめとした「皇国」の重要な神社祭祀を行うこと」が神道の由来だと考えていた。葦津は血盟団事件五・一五事件への共感を語ることもあり、思想的な遍歴は影山正治などと類似しているところがある。戦前は神道の宗教性を強調する面もあり、折口とも通じ合うところがある[13]

国家神道研究[編集]

村上重良の『国家神道』(岩波新書、1970年)と葦津珍彦の『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、1987年)の2冊は学問としての国家神道研究を促進する起爆剤となった。葦津は村上に代表される国家神道とは神社神道皇室神道、そして教育勅語などの近代天皇制イデオロギーとが複合した「国教」とする見解を否定し、「国家神道」という用語を神道指令の定義に即して使うべきだとした[14]新田均は「「国家神道」論の系譜(上・下)」(『皇学館論叢』第32巻第1号・第32巻第2号、1999年2月・1999年4月)で「国家神道」研究を「狭義の国家神道」論と「広義の国家神道」論に区分し、前者を「「国家神道」を神社神道を国家管理状態に限定して理解しようとするもの」、後者を「「国家神道」を神社神道以外の宗教をも包含する広範な国家的宗教制度として理解しようとするもの」と定義した。前者の論者に葦津珍彦、阪本是丸、後者の論者に村上重良、宮地正人中島三千男安丸良夫などがいるとした[15]

安丸良夫は葦津について「葦津説は、先述の村上説の正反対で、明治初年以来、在野で不遇をかこってきた存在としての神道家という立場からする憤りが込められていて、迫力がある。また、この葦津説には、明治初年の祭政一致や神道国教主義の時代と十五年戦争期とを安易に直結して、その間の時期の具体的研究をなおざりにしやすかった傾向を批判する意味があって、さきの中島、阪本、赤澤らの主張ともあいまって、傾聴すべき論点を含んでいる。もとより、葦津が真の神道だと称揚する在野の神道家と一般国民に継承されてきた神国思想=民族意識なるものこそ、本書の立場からは、イデオロギー的作為の結実にほかならないのではあるが。」と評している[16]

島薗進は葦津が国家神道を狭く神社神道に限定して定義し、皇室祭祀・皇室神道に触れないことを批判している。また葦津や葦津の戦略に従う学者(阪本、新田ら)の立場は皇室祭祀を「宗教」ではないものと見なすことによって、「公」領域での機能を保持し、国家神道の陣地を挽回しようとするものだと批判している[17]

備考[編集]

  • 杉山茂丸(長男は夢野久作。孫は杉山龍丸)の縁戚にあたる。葦津と親交のあった鶴見俊輔は「夢野久作には、葦津とあい似た天皇像があった。天皇が自らたんぼに入って田植えをする。金力と暴力によって守られる必要のない、古神道の祭祀をつかさどる人としての天皇である。久作の初期長編童話『白髪小僧』にはそういう人物像がえがかれており…」と述べている[18]
  • 呉智英は『読書家の新技術』(朝日文庫、1987年)のブックガイドで『永遠の維新者』(二月社、1975年)を「前近代的なインドが解放される前段階として欧州列強に支配されるなら、イギリスに支配されるほうがましだ、とするマルクスの見解が批判されている」と紹介し、著者の葦津を「良質な右翼思想家の一人」「もし、反右翼という立場に立つのなら、論敵として最大の重視と敬意が払われなければならないはずなのに、注目すらあまりなされていない」と評している[19]
  • 門下生に神社本庁元事務局長の澁川謙一、憲法・皇室法研究家の田尾憲男、武道家の稲葉稔、神道学者の阪本是丸らがいる。
  • 日本青年協議会は葦津を谷口雅春三島由紀夫小田村寅二郎とともに「四先生」と崇めている[20]

主な著書[編集]

葦津の著作は単著が約90余(冊子類も含む)、共著・他書収載分が約100余ある[21]。著作目録には文元英方・野田和昭編「葦津珍彦先生著作目録」(『葦津珍彦先生追悼録』小日本社、1993年)、神社本庁教学研究所資料室・葦津珍彦選集編集委員会編「葦津珍彦先生著作目録」( 『葦津珍彦選集(三)時局・人物論』神社新報社、1996年)[21]、松田義男編「葦津珍彦著作目録PDF」がある。

単著[編集]

  • 『天皇・神道・憲法』(神社新報社、1954年)
  • 『近代政治と良心問題』(神社新報社、1955年)
  • 『神社新報編集室記録』(神社新報社、1956年)
  • 『中華革命とロシア革命』(内外維新研究所、1958年)
  • 『土民のことば――信頼と忠誠との情理』(神社新報社、1961年)
  • 『明治維新と東洋の解放』(新勢力社、1964年/皇學館大学出版部、1995年)
  • 『大アジア主義と頭山満』(日本教文社[日本人のための国史]、1965年/日本教文社、1972年)
  • 『日本の君主制――天皇制研究』(新勢力社、1966年/神社新報社、1966年)
  • 『ロシヤ革命史話』(新勢力社、1967年)
  • 『神道的日本民族論』(神社新報社、1969年)
  • 『武士道――戦闘者の精神』(徳間書店、1969年/神社新報社、2002年)
  • 『葦津耕次郎追想録』(葦津珍彦、1970年)
  • 『近代民主主義の終末――日本思想の復活』(日本教文社、1972年)
  • 『天皇――日本人の精神史』(神社新報社、1973年)
  • 『永遠の維新者』(二月社、1975年/葦書房、1981年)
  • 『みやびと覇権――類纂天皇論』(日本教文社、1980年)
  • 『大日本帝国憲法制定史』(明治神宮編、大日本帝国憲法制定史調査会著、サンケイ新聞社、発売:サンケイ出版、1980年/神社新報社、2018年)
  • 『時の流れ――戦後三十有余年時評集』(神社新報社、1981年)
  • 『神国の民の心』(現代古神道研究会、発売:島津書房、1986年)
  • 『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、1987年/阪本是丸註、神社新報社、2006年)
  • 『天皇――昭和から平成へ』(神社新報社[神社新報ブックス]、1989年)
  • 『一神道人の生涯――高山昇先生を回想して』(東伏見稲荷神社社務所、1992年)
  • 『明治憲法の制定史話』(神社新報社(時の流れ研究会)、2018年)

著作集[編集]

  • 『葦津珍彦選集(全3巻)』(葦津珍彦選集編集委員会編、神社新報社、1996年)
    • 「(一)天皇・神道・憲法」
    • 「(二)維新の継承者として」
    • 「(三)時局・人物論」
  • 『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ(全6巻)』(葦津珍彦の主張普及発起人会編、葦津事務所、2005-2007年)
    • 「Ⅰ 日本の君主制――天皇制の研究」(2005年)
    • 「Ⅱ 永遠の維新者」(2005年)
    • 「Ⅲ 近代民主主義の終末――日本思想の復活」(2005年)
    • 「Ⅳ 土民のことば――信頼と忠誠との情理」(2005年)
    • 「Ⅴ 大アジア主義と頭山満」(2005年)
    • 「Ⅵ 昭和史を生きて――神国の民の心」(2007年)

共著[編集]

  • 『天皇――日本のいのち』(小出英経、田中忠雄、土屋道雄、原敬吾、夜久正雄共著、日本教文社、1971年)
  • 『日本をみつめる――美しき日本の再建のために1』(村松剛、黛敏郎、田中忠雄、山口悌治、長谷川才次共著、日本教文社、1973年)
  • 『現代維新の原点――天皇御在位満五十年記念出版』(中村武彦、西内雅共著、現代古神道研究会編、古神道仙法教庁、発売:新人物往来社、1976年)

編著[編集]

  • 『井上孚麿憲法論集』(西田廣義、西沢泰夫共編、神社新報社、1979年)

脚注[編集]

[編集]

  1. 『葦津珍彦選集(一)天皇・神道・憲法』(神社新報社、1996年)、現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』(神社新報社、1999年)に所収。
  2. 『葦津珍彦選集(一)天皇・神道・憲法』(神社新報社、1996年)、『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズⅥ 昭和史を生きて――神国の民の心』(葦津事務所、2007年)に所収。
  3. 『葦津珍彦選集(一)天皇・神道・憲法』(神社新報社、1996年)、『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズⅥ 昭和史を生きて――神国の民の心』(葦津事務所、2007年)に所収。
  4. 『天皇――昭和から平成へ』(神社新報ブックス、1989年)、『葦津珍彦選集(一)天皇・神道・憲法』(神社新報社、1996年)、『「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズⅥ 昭和史を生きて――神国の民の心』(葦津事務所、2007年)に所収。

出典[編集]

  1. 現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』神社新報社、1999年、8頁
  2. 以下の位置に戻る: a b c d e f g h i 武田崇元「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」『子午線 原理・形態・批評』Vol.5、2017年
  3. 以下の位置に戻る: a b 武田崇元、アライ=ヒロユキ「interview 武田崇元・八幡書店社主 葦津珍彦が作り上げた核心は「国家管理なき国家神道」」『金曜日』2019年4月12日号
  4. 以下の位置に戻る: a b 斎藤英喜『折口信夫――神性を拡張する復活の喜び』ミネルヴァ書房、2019年、323-327頁
  5. 斎藤英喜『折口信夫――神性を拡張する復活の喜び』ミネルヴァ書房、2019年、316-318頁
  6. 岡谷公二『貴族院書記官長 柳田国男』筑摩書房、1985年、73頁
  7. 神社新報社編『神道指令と戦後の神道』神社新報社、1971年、84頁
  8. 斎藤英喜『折口信夫――神性を拡張する復活の喜び』ミネルヴァ書房、2019年、321-322頁
  9. 葦津珍彦「神道教学についての書簡」、現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』神社新報社、1999年、151-156頁
  10. 葦津珍彦「神道教学についての書簡」、現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』神社新報社、1999年、150頁
  11. 葦津珍彦「神道教学についての書簡」、現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』神社新報社、1999年、155頁
  12. 葦津珍彦「神道教学についての書簡」、現代神道研究集成編集委員会編『現代神道研究集成(第八巻)神道教学研究編』神社新報社、1999年、161頁
  13. 斎藤英喜『折口信夫――神性を拡張する復活の喜び』ミネルヴァ書房、2019年、326-327頁
  14. 阪本是丸研究史 「国家神道」研究の四〇年PDF」『日本思想史学』第42号、2010年
  15. 新田均「「国家神道」論の系譜(上・下)」『皇学館論叢』第32巻第1号・第32巻第2号、1999年2月・1999年4月
  16. 安丸良夫『近代天皇像の形成』岩波書店、1992年、195-196頁
  17. 島薗進『国家神道と日本人』岩波新書、2010年、86-88頁
  18. 鶴見俊輔「葦津珍彦――日本民族を深く愛した人」、黒川創編『鶴見俊輔コレクション1 思想をつむぐ人たち』河出文庫、2012年、408-415頁
  19. 呉智英『読書家の新技術』朝日文庫、1987年、206-207頁
  20. 藤生明日本会議と葦津珍彦PDF」『現代宗教 2018』国際宗教研究所、2018年
  21. 以下の位置に戻る: a b 牟禮仁「葦津珍彦主要著作収載論説一覧」、神社新報社編『次代へつなぐ葦津珍彦の精神と思想――生誕百年・歿後二十年を記念して』神社新報社[神社新報ブックス]、2012年、付録14頁

関連文献[編集]

  • 橋川文三責任編集『戦後日本思想大系 7 保守の思想』(筑摩書房、1968年)
  • 堀幸雄『戦後の右翼勢力』(勁草書房、1983年、増補版1993年)
  • 葦津珍彦先生追悼録編集委員会編『葦津珍彦先生追悼録』(小日本社、1993年)
  • 葦津大成『父、兄、私と大東亜戦争――次代への伝言』(神社新報社[神社新報ブックス]、1999年)
  • 頭山満翁生誕百五十年祭実行委員会編『近現代戦闘精神の継承――西郷隆盛・頭山満・葦津珍彦の思想と行動 頭山満翁生誕百五十年祭記念誌』(頭山満翁生誕百五十年祭実行委員会、2006年)
  • 藤田大誠「葦津珍彦」、井上順孝編『近代日本の宗教家101』(新書館、2007年)
  • 昆野伸幸「戦中・戦後における葦津珍彦の思想――神道観を中心に」『1890—1950 年代日本における《語り》についての学際的研究 成果論集PDF』(2012年)
  • 神社新報社編『戦後神道界の群像――神社新報創刊七十周年記念出版』(神社新報社、2016年)
  • 井上順孝編『リーディングス 戦後日本の思想水脈 第6巻 社会の変容と宗教の諸相』(岩波書店、2016年)
  • 長妻三佐雄、植村和秀、昆野伸幸、望月詩史編著『ハンドブック近代日本政治思想史――幕末から昭和まで』(ミネルヴァ書房、2021年)
  • 藤田大誠「葦津珍彦の政教論研究序説――祭政一致を前提とした「政教分立」構想」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第61号、2024年)

外部リンク[編集]