長坂虎房
長坂 虎房(ながさか とらふさ、? - 天正10年(1582年)3月[1])は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。官途は左衛門尉[1][2]。受領名は筑後守[1][2]。諱は光堅(みつかた)と誤解されていたが、これは法号でこうけんと読む。そのため釣閑斎光堅(ちょうかんさいこうけん)という[2]。子に昌国[2]。『甲陽軍鑑』では武田勝頼に仕えた奸臣と評されていることで有名な人物である。
生涯[編集]
武田信虎の時代から甲斐武田氏に仕えた古参で、跡部氏ほど地位や家格は高くなかったのに勝頼期に一気に側近として頭角を現した人物である[2]。
武田信玄の時代の天文11年(1542年)9月に宮川の戦いで功名を立てた[1]。天文17年(1548年)11月に諏訪郡司に任命されて上原城代となり、翌年に諏訪高島城代となる[1]。天文22年(1553年)に甲斐に帰国し、以後は信玄の信濃攻めに従って転戦したが、以後は信玄に余り重用されていない[1]。
朱印奏者としては勝頼が甲斐に入国してから見られ、嫡子の昌国も天正4年(1576年)から朱印状奏者として活動しているなど、父子揃って勝頼期に一気に台頭している[2]。
天正10年(1582年)3月、織田信長の武田征伐で織田軍に捕らえられ、父子共々処刑された[2]。
人物像[編集]
『甲陽軍鑑』など後世の史料では跡部勝資と並ぶ勝頼の奸臣と評されている。『軍鑑』及び『当代記』では長篠の戦いの際、馬場信春や山県昌景ら信玄以来の名将たちが戦況不利を悟って慎重論を述べたのに対し、長坂は決戦論を主張したとされている。ただし長坂は長篠の戦いには直接参加しておらず、この記述には疑問が持たれている。『軍鑑』では御館の乱の際に上杉景勝から和睦の条件として進呈された軍資金を跡部と共に横領したとする記述もある。