板垣信憲
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板垣 信憲(いたがき のぶのり、享禄2年(1529年[1]) - ?)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。武田二十四将の一人である板垣信方の嫡子[1]。
生涯[編集]
仮名は弥次郎。天文17年(1548年)の上田原の戦いで父が戦死したため、家督を継いだ[1]。所領や同心衆はそのまま継承しているが、諏訪郡代の地位は若年を考慮されて継承されず、長坂虎房に交代している[1]。甲斐武田氏の両職は継承しており[1]、天文20年(1551年)に甘利信忠と共に二宮神社の修造を奉行している(『諸州古文書』)。天文22年(1553年)には伊勢神宮への取次を務めた(『外宮引付』)。
このように武田家の宿老として活動しているが、後年に信玄により殺されている。『甲陽軍鑑』では勘気に触れたとし、その年代を天文21年(1552年)としているが、実際にそれ以降も存命しているためこれは誤りである。『千野文書』では弘治3年(1557年)7月の信濃小谷城攻めに参加しているため、それ以降と考えられる。
信憲の死去により所領は没収され、同心衆200騎も山県昌景や高坂昌信に分けられ、板垣氏は断絶した[1]。後に永禄初頭に於曽氏の板垣信安が名跡を与えられて再興している[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1