藤原道長
此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
- 藤原道長。「小右記」より引用
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代の貴族(公家)・政治家である。
生涯[編集]
966年、藤原兼家の子として生まれる。時の天皇は村上天皇。当時、皇族を除くと最も権力があったのは大伯父の藤原実頼であり、道長は実頼の弟師輔の三男兼家のさらに五男にすぎず、普通に考えて藤原氏の当主とはなり得なかった。
翌967年、村上天皇崩御、冷泉天皇即位。これにより、実頼の子孫ではなく、冷泉天皇の外祖父であった師輔の子孫が権力を持つ様になっていった。とはいえ、師輔の長男である藤原伊尹が嫡流となるのが自然であった。しかし986年、寛和の変により事態が一変。父の兼家が、花山天皇の失脚に成功、兼家の外孫である一条天皇を傀儡天皇として即位させることに成功し、兼家が最高権力者となった。
運命のいたずらはさらに続く。藤原兼家は990年に死去し、兄の道隆が後継者となったが、その5年後の995年に道隆、道兼が相次いで死去。道隆の長男である藤原伊周が後継者と見られたが、翌996年の長徳の変で伊周を失脚させることに成功、道長が権力を握ることに成功した。
権力を握った道長は、娘を次々と皇室に送り込んだ。まず手始めに、1000年、娘の彰子を一条天皇に入内させ、ゴリ押しで中宮とした。1010年には、姸子を、一条天皇の従兄で皇太子でもあった居貞親王、後の三条天皇に入内させる。1011年には、一条天皇が譲位後すぐに崩御、三条天皇が即位、一条天皇と同じく兼家の外孫であり、藤原氏の傀儡であった。
1016年、三条天皇が譲位、その翌年に崩御。ここで道長は、彰子の子、すなわち道長の外孫にあたる後一条天皇を7歳で即位させ、天皇の外祖父として最大の権力者となった。1018年になると、娘の威子を後一条天皇に入内させ、道長の娘が三后を独占。この時に調子に乗って詠んだ歌が、「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」である。
1028年に死去。糖尿病を患っていたと考えられている。
人間関係[編集]
- 道長と共に政権中枢を担った公卿に、源俊賢、藤原公任、藤原斉信、藤原行成がおり、「寛弘の四納言」と呼ばれた。
- 武士の部下に、道長四天王と呼ばれる4人の棟梁がいた。藤原保昌、源頼信、平維衡、平致頼の4人である。このうち源頼信は河内源氏、平維衡は伊勢平氏の祖となり、子孫が武力を背景に勢力を強め、国を二分する巨大勢力となった。まずは平清盛が、次いで源頼朝が国の最高権力者となり、藤原氏は下克上された形となった。
同世代の人物[編集]
- 藤原伊周 - 甥
- 藤原隆家 - 甥。伊周の同母弟。刀伊の入寇を食い止めた。
- 円融天皇 - 義兄、天皇
- 真宗 - 中国、宋の皇帝
- アズィーズ - エジプト、ファーティマ朝のカリフ
- バシレイオス2世 - トルコ、ビザンツ帝国の皇帝
- ヒシャーム2世 - スペイン、後ウマイヤ朝のカリフ
演じた俳優[編集]
脚注[編集]
- 注
- 出典