名鉄知多新線

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知多新線
概要
系統内海・河和方面
起終点起点:富貴駅
終点:内海駅
駅数6駅
路線記号KC
ウェブサイト河和線・知多新線
運営
開業1974年6月30日 (1974-06-30)
最終延伸1980年6月5日 (1980-06-05)
所有者名古屋鉄道
路線諸元
路線総延長13.9 km (8.6 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化直流1,500 V,
架空電車線方式
運行速度最高100 km/h[1]
外部リンク

知多新線(ちたしんせん)は、愛知県知多郡武豊町富貴駅から同郡南知多町内海駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。名鉄で「新線」を名乗る唯一の路線である[2][注 1]

特徴[編集]

愛知県知多郡武豊町富貴駅と知多郡南知多町内海駅を結んでおり、いずれも知多半島の武豊町、美浜町、南知多町を通る。

主要駅には富貴駅や知多奥田駅や内海駅などがある。富貴駅で名鉄河和線と接続しており、多くの列車は河和線に直通している。南知多地域への観光路線や日本福祉大学への通学路線という性格を有する。

乗車人員が多い駅は、知多奥田駅(乗車人員約2,600人/日)、富貴駅(乗車人員約1,200人/日)、内海駅(乗車人員約700人/日)の順である。途中駅である知多奥田駅の乗車人員が飛びぬけて多いのは、日本福祉大学日本福祉大学付属高等学校の最寄駅であるためである。

歴史[編集]

開業前[編集]

知多半島は現在のJR武豊線が明治期にいち早く開業し、半島北西部や河和線沿線に当たる半島中央部も鉄道が整備されてきた。中京圏の手ごろな観光地として名が知れてきた半島南部の地域でも、かねてより鉄道敷設計画が計画されたが、いずれも資金難や技術の問題があって立ち消えになり、現在の南知多町に当たる地域には鉄道が存在していなかった[注 2]

名鉄は、工業化されず自然が残る半島南部の観光地化を進めるべく、知多半島南西部の野間・内海に鉄道を敷設することを計画。路線案としては常滑から小鈴谷経由で南下するルート、河和から南下するルート、武豊町で半島丘陵部を横断してそこから南下するルートの3つが考えられたが、常滑案は建設距離の長さから早々に却下され[注 3]、残った2ルートで検討が進められたが、結局武豊町から分岐することになった。

1969年から敷設工事が開始されたものの、別曽池 - 上野間間のトンネル敷設工事中に出水事故が発生。これにより工法やルートの見直しが行われたことで開業時期は伸びに伸びて1974年にようやく富貴 - 上野間間が開業し、戦後、不振線区の廃線リストラばかりを続けた名鉄が久々に新設開業させた線区となった。
その後も順調に延伸され野間駅まで延伸され、残すは野間 - 内海間の一区間となり、名鉄は系列の知多バスの車庫用地を利用して、当時ブームになっていた海水浴客を輸送するために海側に駅を設けようとしていたが、地元商店街は内陸側に駅を設けて駅と海岸の間で商売を行うことを計画し、内海駅の設置場所をめぐって名鉄 vs 地元の対決が勃発した。
結局、名鉄側が折れる形で内陸側に駅が敷設されることになった。位置変更することになったものの、工事途中に貝塚が発見される。この貝塚はのちに先苅貝塚と命名され、縄文時代の生活を表す貴重な資源の一つであるが、貝塚の発掘調査が終わるまでは建設計画の中断を余儀なくされた。

全線開業後[編集]

こうして、内海まで延びたのは1980年までずれ込むことになった。
内海までめでたく開業することになったものの、開業時期が遅れたことや地元エゴによる内陸ルートになったことで当初は想定しえなかったことが起きるようになる。当初の名鉄では観光輸送と共にニュータウンを計画する予定であり、全線複線・高架という大盤振る舞いな構造で計画された。ところが建設が遅れたことで南知多町を中心に市街化調整区域が指定されてしまい、当初予定していたニュータウン開発が事実上不可能となってしまった。その結果事業の大幅な見直しを余儀なくされ、当初の計画であった小野浦駅の設置や複線化は見送りとなる。また、観光輸送に関しても内海駅を内陸側に置いたことで海水浴目当ての乗客は少なく、経営上の大きなお荷物となってしまった。南知多ビーチランド内海フォレストパークを建設し、名古屋からのDXパノラマカーの運転などを行ったものの、1980年代にもなるとマイカーでの移動が主流となり、想定したほどの観光客利用は実態として現れなかった。一方で1983年には知多奥田駅周辺に日本福祉大学美浜キャンパスの開学による通学輸送の増大や1987年には宅地開発を行うために新駅美浜緑苑を開設する。前者は知多新線を支える重要な旅客需要の拡大につながったが、美浜緑苑駅の利用者数は低迷し、宅地開発はうまくいかなかった。

2000年代[編集]

2000年代、名鉄は不採算路線や不採算事業の整理を進めることになった。知多新線は廃止までとはいかないものの、皮肉にも最初に却下した常滑ルート案近くの中部国際空港の開港も相まって従来ほどの投資対象路線とはされなくなった。沿線の内海フォレストパークも2003年に閉園に追い込まれ、2008年の特急列車の政策見直しによってほとんどの特急が河和発着となった。

2010年代以降[編集]

2011年には日中にも毎時1本の特急が設定されたものの、富貴折り返し列車が消滅したため日中は毎時3本となり1時間当たり1本の減便となった。また、特急も以前とは異なり一般車両を用いた全車一般車特急となった。
時は流れて2020年代、新型コロナウイルス蔓延による利用者減を受けて内海駅の無人化などが行われた。
さらに、2023年春のダイヤ改正で富貴駅以北を結ぶ列車が大幅に削減され、日中時間帯を中心に毎時2本のワンマン運転の線内列車が主体となる。このように当線はかつて観光輸送が積極的に行われてきた路線としては相当の凋落ぶりを表している。

使用車両[編集]

上記2形式は、昼間 - 夜間帯に設定されるワンマン列車にも入る車両。それ以外の以下の形式は、早朝と深夜のみ運用に入る。

運行種別[編集]

駅時刻表には以下の種別があるが、すべての列車が各駅に停車する。平日の朝夕は河和線への直通列車を運行している。

  • 特急
  • 快速急行
  • 急行
  • 普通

駅一覧[編集]

駅番号 駅名 接続路線 所在地
直通運転区間 NH 名古屋本線岐阜駅まで
TB 津島線弥富駅まで
IY 犬山線新鵜沼駅まで
HM 広見線新可児駅まで
KC17 富貴駅 名古屋鉄道:KC名鉄河和線 武豊町
別曽池信号場  
KC20 上野間駅   美浜町
KC21 美浜緑苑駅  
KC22 知多奥田駅  
KC23 野間駅  
KC24 内海駅   南知多町

未成駅[編集]

  • 小野浦駅(野間 - 内海間に設置予定だが、全く進捗せず構造物のみある。)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 豊田線羽島線はかつて「豊田新線」「羽島新線」と称されていたが、両路線とも正式名称は開業時より「豊田線」「羽島線」であり、正式名称が「新線」なのは知多新線が唯一である[2]
  2. 鉄道敷設法別表第71号には「愛知県武豊ヨリ師崎ニ至ル鉄道」の記載があり、武豊線を知多半島先端の師崎(もろざき)まで延伸する構想はあった。
  3. 建設距離もさることながら太田川〜常滑間に追い抜き可能駅が無い弱点もあった。また、構想当時は後の中部国際空港計画は形すら無かった。

出典[編集]

  1. 徳田耕一 『名古屋鉄道 今昔―不死鳥「パノラマカー」の功績』 交通新聞社〈交通新聞社新書〉、2017年8月、147頁。ISBN 978-4330819174
  2. a b 清水武「名古屋鉄道の新線展開を振り返る」、『鉄道ピクトリアル』第816巻、電気車研究会、2009年3月、 121頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


名古屋鉄道(名鉄)の路線一覧
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