知多半島

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知多半島(ちたはんとう)は、愛知県南西部にあって伊勢湾に突き出した半島

地理[編集]

知多半島の西側は伊勢湾であり、東側は知多湾である。先端は渥美半島と向かい合っている。東西の幅は最大12km、最小5km、南北の長さは約25kmであり、南北に細長い半島である[1]

自治体[編集]

知多半島は以下の5市5町からなる。

産業[編集]

かつては酒造業などの醸造業が盛んだったが、1961年(昭和36年)に愛知用水が通水すると農業が盛んとなり、特に酪農が盛んなことに特色がある。醸造業以外の伝統産業としては、知多木綿常滑市の窯業などがあり、近代以降の産業としては、東海市の製鉄業や南知多町/美浜町の観光業などが挙げられる。

醸造業[編集]

地理的条件などを理由として、近世から近代の知多半島では醸造業が栄えた。この地域では様々な醸造品が生産され、日本酒みりんみそたまりなどが全国的に知られている。江戸時代初期の知多半島には100軒以上の酒蔵があったという。18世紀末には江戸に出荷される酒の約1割が知多半島産であり、その比率はやがて3割にまで増加した。知多半島では海運業も盛んで輸送手段があったこと、尾張藩が酒造業を奨励したこと、江戸という大規模な消費地があったこと、良質な米や水が得られたことなどが発展の理由に挙げられる。現在の自治体名でいうと、半田市常滑市南知多町東海市の順に酒蔵が多かった。

この地域は江戸と上方の中間に位置するため、知多半島を含めた尾張国三河国伊勢国などで生産された日本酒は「中国酒」と呼ばれた。日本酒の生産に用いるは知多半島のみならず西三河からも運び込まれた。知多半島には大河がなく仕込水に恵まれないため、当初は井戸水を醸造に使用していたが、幕末以後には醸造用の上水道が建設された。幕末期の中国酒は上方の伊丹などに匹敵する評価を得ていたが、明治時代以降には輸送手段の近代化や酒税制度の改正に対応しきれず、廃業する酒蔵が相次いだ。

酒蔵[編集]

現在の知多半島には以下のような酒蔵があり、いずれも高い評価を受けている。

  • 盛田金しゃち酒造(株)
    • 東岸の半田市亀崎町。亀崎は山車祭りの潮干祭りで知られる。嘉永元年(1848年)創業の天埜酒造を継承して2010年(平成22年)に設立された酒蔵。1984年(昭和59年)・2017年(平成29年)・2019年(令和元年)に全国新酒鑑評会で金賞を受賞。「金鯱」など。
  • 澤田酒造(株)
    • 西岸の常滑市古場町。船便に恵まれた土地であり、嘉永元年(1848年)に澤田儀平治によって創業。明治後期には先進的な醸造試験所を設け、腐造を防ぐ技術を開発した。1969年(昭和44年)には全国に先駆けて澄んだ生酒を発売した。2018年(平成30年)に全国新酒鑑評会で金賞を受賞。「白老」など。
  • 盛田(株)
    • 西岸の常滑市小鈴谷。寛文5年(1665年)創業。味噌・たまり・醤油の醸造も行う。1990年(平成2年)には博物館の盛田味の館が開館した。ソニー創業者の盛田昭夫は盛田家出身である。全国新酒鑑評会では2006年(平成18年)から2015年(平成27年)まで9年連続で金賞を受賞しており、これは名古屋国税局管内における連続記録である。「ねのひ」など。
  • 原田酒造(資)
    • 東岸の知多郡東浦町大字生路。東浦は徳川家康の生母である於大の方の生誕地であり、安政2年(1855年)に原田徳右ヱ門によって創業。杜氏は越後杜氏。蔵開きでは酒槽から出した酒をそのまま試飲することができる。「生道井」など。
  • 丸一酒造(株)
    • 内陸部の知多郡阿久比町大字植大。1917年(大正6年)創業。阿久比町は良質な米や水に恵まれているとされ、阿久比米やホタルの里として知られる。酒造技術は越後流であり、全国新酒鑑評会で6年連続金賞を受賞したことがある。「ほしいずみ」など。
  • 中埜酒造(株)
    • 東岸の半田市東本町2丁目。弘化元年(1844年)に國盛蔵として創業。1890年(明治23年)には明治天皇が國盛蔵の敷地内に設置された大本営から第1回陸海軍大演習を統監した。1984年(昭和59年)には新蔵を設立し、旧蔵は博物館の國盛 酒の文化館に転用した。2019年(令和元年)まで全国新酒鑑評会では6年連続で金賞を受賞。「中埜」など。

脚注[編集]

外部リンク[編集]