明智氏
明智氏(あけちし)は、美濃国の守護大名である土岐氏の支族である。本能寺の変で織田信長を討った明智光秀で著名な氏族である。信長を討って一時期は明智政権を築き上げたがその内実は脆弱で、わずか11日で光秀が討たれることで消滅し、明智一族も滅亡した。
概要[編集]
明智家は美濃国明智荘(現在の岐阜県可児市)の地名から明智姓を名乗るようになったとされる[1]。ただ、明智光秀以前の明智家については詳細が明らかではない[1]。
『尊卑分脈』によると源頼光の7代目の孫にあたる土岐光行から光定・頼貞・頼基を経て、頼基の子の頼重が明智彦九郎を称したのが、明智氏の始まりとされる。ただし、頼貞の後、頼清・頼兼と続いた頼兼が明智二郎と称して明智氏の開祖になったとする説もある。系図により明智家の開祖は異なり、その後の系図も異なる部分が多くて信憑性に疑問を持たざるを得ないのが実情なのである。明智光秀の父親についても明智光隆、明智光綱、明智光国と系図によって分かれており、確定されていない[1]。また、桑田忠親の『明智光秀』では光秀は明智氏の養子であり、実際に明智氏の血は継いでいなかったとする説もある。
明智光秀は戦国時代に越前の朝倉義景に仕官し、永禄の変で越前に亡命してきた足利義昭と美濃の織田信長の橋渡し役を務め[2]、以後は信長の重臣として重用された。元亀2年(1571年)には近江坂本城主に任命され、丹波平定を果たしてその国主に任命されるなど、信長からますます重きに置かれていた。しかし天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変を起こして信長、並びにその嫡子である信忠を殺害して京都を制圧し、一時的ながら明智政権を樹立して天下に号令する。だが、新政権は謀反によって創られたもののために旧信長家臣団の協力をほとんど得られず、光秀自身も準備に欠けており縁戚にあたる細川氏や筒井氏には背かれるなど、この政権は樹立早々から既に破綻寸前の状況にあった。
信長の横死を知って引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで大敗を喫した光秀は近江坂本に逃れて態勢を立て直そうとしたが、小栗栖において農民の落ち武者狩りに遭って殺害され、ここに明智政権は3日天下(実際は11日)に終わった。
間もなく近江坂本城も秀吉の追討軍により包囲され、光秀の娘婿・明智秀満によって光秀の嫡子・光慶ら明智一族は悉く自殺し、明智家は大名としては完全に滅亡した。
庶流などの一部は土佐など各地に逃れて存続し、光秀の娘・細川ガラシャの血統などは現在でも続いている。