前田玄以
前田 玄以 まえだ げんい | |||||||||||||||||||||||||||||
前田玄以 (月百姿、月岡芳年画)
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前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の1人であり、京都所司代も務めた。丹波亀山藩の初代藩主(5万石)[1]。
生涯[編集]
織田家臣時代[編集]
前半生など系譜関係については不明な点が多い。当初は織田信長に仕え[1]、その嫡男・織田信忠付となる。天正10年(1582年)の本能寺の変の際、二条御所で討ち死にを覚悟した信忠から、この場から逃れて信忠の長男である三法師を守るように遺命を託されたとされている。
信長・信忠父子の死後は、信長の次男で信忠の同母弟である織田信雄に仕え、京都所司代に任命された[1]。これは信長の時代に京都所司代であった村井貞勝の娘婿だった縁なども影響していると見られている。
豊臣家臣時代[編集]
天正12年(1584年)頃、京都が完全に羽柴秀吉の支配下になると、秀吉の家臣となり、従来の京都所司代の地位もそのまま保証された[1]。玄以は徳善院、民部卿法印と称しており[1]、僧体にあったと思われ、キリスト教徒を弾圧したりしている。また、京都の行政なども任された。
文禄4年(1595年)、秀吉から丹波亀山城に5万石を与えられて大名となった[1]。秀吉の最晩年には石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家らと並んで五奉行に列し、豊臣政権の枢機に参画した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去し、次の実力者として徳川家康が台頭する。一次史料などからは、玄以は増田、長束と共に三奉行の1人として家康、あるいは毛利輝元、前田利家らと接近したりして処世を繰り広げている。
慶長5年(1600年)7月、石田三成が挙兵すると、玄以は増田、長束と共に連署して「内府ちかひの条々」を発し、毛利輝元を西軍の総大将に迎えて西軍首脳の一員に列した。ところが、玄以は戦場には参加せず、息子の茂勝と軍勢を東軍に属した丹後田辺城に差し向けるのみで、自らは大坂城の留守居を務めるだけだった。玄以にも西軍の一員として参戦するように要請もあったものの、自身の老齢と病気を理由にして最後まで拒否したという[1]。
戦後、玄以は大坂城を退去して河内天野に閑居した。
江戸時代[編集]
関ヶ原の戦い本戦の翌月である10月、家康に拝謁して丹波亀山の所領を安堵され[1]、その初代藩主になることを許されている。西軍の主要メンバーの1人であり、他の奉行が全員改易されている中でこれは異例だった。これについては細川忠興の取り成しがあったためとも[1]、家康が織田政権時代から京都所司代として朝廷に対して太いパイプを持つ玄以の影響力を重視したためともいわれている。
江戸時代後期の『寛政重修諸家譜』には家康が罪を許した理由について「玄以が大坂城にいながら、その内情を家康に内通しており、三成の謀反の書状に連署しなかったため」としているが、内府ちかひの条々に連署していることは明らかなので、これは疑問である。
慶長7年(1602年)5月20日に死去。享年64。家督は子の茂勝が継承した[1]が、茂勝は6年後の慶長13年(1608年)に改易されている。
系譜[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]