織田秀雄
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織田 秀雄(おだ ひでかつ/ひでお、天正11年(1583年) - 慶長15年8月8日(1610年9月24日)は、安土桃山時代の武将・大名。
生涯[編集]
天正11年(1583年)、織田信雄の長男として誕生。母は北畠具教の娘・千代御前(雪姫)なので、織田信長と北畠具教の孫に当たる。幼名は三法師であり、これは信雄の兄・織田信忠の嫡男・織田秀信と同じ幼名である。当時、信雄は羽柴秀吉と次期政権の主導権争いをしており、それを意識して我が子に三法師という幼名を与えた可能性がある。
天正18年(1590年)、父の信雄が秀吉の旧徳川家康領への移封を拒否したために改易されたが、秀雄は文禄元年(1592年)になって召し出され、青木秀以の後を受けて越前国大野郡5万石を与えられ、亀山城(大野城)を居城とした。治世はほとんど不明であるが、寺領や神社への寄進などが確認される。また、石高こそ少ないが秀吉の元主筋であるためか、従四位下、従三位参議と、官位では非常に優遇され、秀吉から「秀」を与えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、加賀国の前田利長と敵対したため、戦後に家康の命令により改易された。この際に父の信雄も改易された。
その後は徳川秀忠より召し出され、江戸の浅草に閑居しながら蔵米3000俵を与えられた。
慶長15年(1610年)8月に死去。28歳の若さで父より先立った。正室も子女もおらず、生涯独身だった。