清津市
清津市(せいしんし、チョンジンし)とは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北東部、咸鏡北道東部の日本海(東海)に臨む港湾都市であり、道庁所在地でもある。清津とは「清廉な港」を意味する。
位置 | |
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各種表記 | |
チョソングル | 청진시 |
漢字: | 淸津市 |
日本語読み仮名: | せいしん-し |
片仮名転写: | チョンジン-シ |
ローマ字転写 (RR): | Cheongjin-Si |
ローマ字転写 (MR): | Chŏngjin-Si |
英語表記: | Chongjin-City |
統計(2008年) | |
面積: | 1,855 km2 |
総人口: | 667,929 人 |
行政 | |
国: | 朝鮮民主主義人民共和国 |
上位自治体: | 咸鏡北道 |
下位行政区画: | 7区域93洞14里 |
概要[編集]
革命の首都である平壌市、平壌近郊の港湾都市南浦市、東海岸最大の重化学産業都市咸興市に続いて、朝鮮民主主義人民共和国第4の都市である。
地理[編集]
市域の東側に標高196メートルの双燕山・標高183メートルの高秣山が走っている他、高秣半島が湾の方へと張り出している。西側には標高102メートルの天馬山が走っており、西北方面へと走っている。北側は山がちな地形で、市域は山に囲まれているような地形である。その山を縫うように朝鮮国鉄咸北線や会寧市・茂山郡方面へと抜ける、主要道路が通っている。市内北部で有名な山は駱駝山で、そのほかにも山々が北側には連なっている。
清津港は清津湾の最奥にある。湾は弓形の形をしている。そんな湾内で高秣半島の突き出した部分までに大きな港がある。港内は広く水深が30mの深さである上に干満の差が少ない天然の良港であるが、西南側には半島のような自然の防波堤の役割を果たす地形がなく、押し寄せる波をふさがないので、前面に防波堤を築造した。山を削ったり、灯台が建てられたりしている。高秣山の地質は岩石がほとんどだが、その表土に木が茂っており、先述の通り南に灯台がある。
市域の西部の羅南・水南・松坪付近の地域は広大な輸城平野が広がっており、平野の東には輸城川が流れている。
海洋性気候で海が近いが故に冬は内陸地域より気温が高く、夏は涼しく冬は厳しい寒さがない。春と夏にしきりに霧が立つのが特徴である。年中霧が立つ日数は35~45日で、大体6~7月ごろに立ち込める。年平均気温6~8℃、1月の平均気温-5.3℃、8月の平均気温14.9℃、年間降水量567.1㎜である。
清津は国の経済発展で重要な役割を果たしている鉄鋼業基地である側面と多くの教育・文化施設集中している文教地区の面を兼ね備えた大都市である。市内の中心にある浦港広場には偉大な領袖金日成同志と偉大な指導者金正日同志の銅像がある。
平壌から清津までは788km。
歴史[編集]
概要[編集]
はじめは富寧と呼ばれる小さな漁村だった。1908年に開港されると日本の支配下で繁栄を遂げる。1929年には鉄道が開通し、それに伴い同時期に日本で大陸進出の動きが強まると当地は日本軍の兵站基地として繁栄を遂げた。1950年からの朝鮮戦争により都市は破壊されたが、戦後は製鉄所、造船所、化学繊維工場などが立地し、北朝鮮を代表する重工業都市として繁栄を遂げた。1960年、羅南などを併合して市域を拡大する。1959年から1967年の間には在日朝鮮人の帰国船の到着場所にもなっていた。1977年に直轄市に昇格するが、1985年に単独の市に戻された。
1990年に中華人民共和国・ロシアと共に経済開発の豆満江開発計画の発表により、経済面での発展が開始される。しかし当地は産業基盤が未だに未整備だったため、計画そのものが破綻してしまった。周辺には軍需工場も多く存在している。先述のような工業地帯だった為、原則として外国人に開放されていなかったが、近年北東部の羅先地域の解放に伴い、清津市・会寧市のあたりが開放されつつある。
行政区歴史[編集]
古代[編集]
豆満江下流沿岸に旧石器時代の動物化石と細石器・骨角器などの遺物と遺跡地が発見された。隣接する様々なところから新石器時代の貝塚から打製石器・磨製石器・骨角器・櫛目文土器・紡錘車などが出土しており、旧石器時代からこの地方に人間が住んでいたことがわかる。司馬遷の史記によれば「この地方は粛慎・揖婁・濊貊・沃沮・靺鞨・夫餘などの部族国家があり、三国時代には高句麗の領域であった。」とある。また、668年高句麗が滅んで、その地には唐の軍政が敷かれた。699年には渤海の東京龍原府に属していた。
高麗[編集]
渤海が契丹(遼)によって滅ぼされて以降は遼・金・元の支配を受けた。高麗末期今の両江道甲山郡から豆満江下流に至るまでが女真族の勢力範囲として入り、当時の呼称朔方道または東北面の亏籠耳つまりは今の咸鏡北道鏡城郡の管轄下に入っていた。
李氏朝鮮[編集]
- 1398年 - 東北面の都宣撫巡察使であった鄭道傳が咸鏡北道の郡・県の行政区域を策定し先述の亏籠耳は鏡城に改編され、この地域は石幕という地域となった。
- 1410年 - 豆満江下流の慶源府が女真の侵略にあい鏡城府に併合された。
- 1417年 - 府庁を富家站に移し、慶源都護府として復活し、清津地域は鏡城から都護府管轄となる。
- 1438年 - プゴ県に属し、その後リュク・ジンという人物による開拓によって富寧府が設置され、その管轄下に入る。この当時は60軒程度の家があるくらいの小さな漁村に過ぎなかった。
- 1592年 - 壬辰倭乱の時に、臨海君と順和君が会寧に避難をし、そこの管理者に捕らえられ的に差し出されたときに、土着の臣民であった朴唯一が二人の王子を救った。
- 1795年
- 鏡城郡判官金晦彬の自費自弁によって建立され、李載亨・朴興宗など8人を祀っている道北祠が建立。
- 水南洞にこの地方の儒賢を教育する為に鄕賢書院が建てられた。
- 1865年 - 1592年の出来事を称え、朴唯一の家に彰義堂という額面をかけ、家の西側に両王子紀蹟碑を建てた。
- 1895年 - 鏡城府富寧郡となる(二十三府制)。
- 1896年
- 書院撤廃令によって鄕賢書院が撤廃された
- 咸鏡北道富寧郡となる。
近代[編集]
- 1904年 - 日露戦争が勃発し、この地は兵力と軍需物資の輸入港として徐々に発展。
- 1907年 - 清津府に改編される。
- 1908年 - 万国通商港として清津港開港。
- 1911年 - 清津公立普通学校が設立
- 1913年 - 元々あった富寧郡の一縁を統合し、清津府として昇格させる。
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、咸鏡北道清津府を分割し、清津港付近の区域(青下面の一部)を新たな清津府として指定する。農村部を会寧郡の一部(観海面)とともに富寧郡として編成。
- 1915年 - 羅南公立普通学校が開校。
- 1920年
- 清徳学校開校
- 羅南公立高校などが設立
- 1921年 - 咸鏡線・清会線(現在の咸北線)と間島の連絡と輸出入のできる場所として脚光を浴び、大々的な港の開発工事始まる。
- 1924年
- 羅南公立中学校が開校
- 清津公立高校設立
- 1926年 - 清津公立中学校設立
- 1927年 - 清津公立商業学校設立
- 1928年 - 1923年に鏡城郡に建てられた公立師範学校を清津に移転。
- 1930年代 - 茂山鉄山の開発に加えて3大製鉄工場をはじめとし、紡織・機械・食品加工などの各種工場が建設され、重工業都市としても大きな飛躍をし、港湾施設も本港以外の漁港埠頭と日鉄専用埠頭が築港された。
- 1930年 - 清津公立水産学校設立
- 1935年 - 羅南公立高校など女学校が設立
- 1939年 - 富寧郡青岩面、鏡城郡龍城面の各一部を編入。
- 1940年3月 - 鏡城郡羅南邑の一部を編入。
- 1943年
- 一部(松郷洞)が鏡城郡龍城面に編入。
- 鏡城郡羅南邑および鏡城邑・龍城面の各一部、富寧郡青岩面の一部を編入。
- 清徳学校に2年制の電気学校を併設。
- 1945年
戦後[編集]
- 1949年
- 一部(自作洞・松谷里・輸城洞・芹洞・松亭洞および回岩洞・南夕洞の各一部)が分立し、富寧郡輸城面となる。
- 一部(水南洞・龍岩洞・鳳岩洞・水北洞・羅北洞)が羅南市に編入。
- 1950年 - 一部(稷下里)が富寧郡青岩面に編入。
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、咸鏡北道清津市、富寧郡輸城面の一部地域をもって、清津市を設置。清津市に以下の里が成立。(5洞27里)
- 明星里・校洞里・解放里・新津里・洛陽里・漁港里・東新岩里・西新岩里・天摩洞・西興里・観海里・中央洞・槿花里・仁谷里・民主里・南江里・水南洞・新郷里・楸坪洞・末陰里・静山里・月浦里・倉坪里・斑竹里・東西水羅里・大西水羅里・沙峯里・龍湖里・康徳里・農圃里・松郷里・松坪洞
- 1955年 (26洞6里)
- 明星里が明星洞に昇格。
- 校洞里が校洞に昇格。
- 解放里が解放洞に昇格。
- 新津里が新津洞に昇格。
- 洛陽里が洛陽洞に昇格。
- 漁港里が漁港洞に昇格。
- 東新岩里が東新岩洞に昇格。
- 西新岩里が西新岩洞に昇格。
- 西興里が西興洞に昇格。
- 観海里が観海洞に昇格。
- 槿花里が槿花洞に昇格。
- 仁谷里が仁谷洞に昇格。
- 民主里が民主洞に昇格。
- 南江里が南江洞に昇格。
- 新郷里が新郷洞に昇格。
- 末陰里が末陰洞に昇格。
- 静山里が静山洞に昇格。
- 倉坪里が倉坪洞に昇格。
- 斑竹里が斑竹洞に昇格。
- 沙峯里が沙峯洞に昇格。
- 松郷里が松郷洞に昇格。
- 1957年 (26洞6里)
- 仁谷洞・水南洞・斑竹洞の各一部が合併し、南郷洞が発足。
- 東新岩洞・西新岩洞が合併し、新岩洞が発足。
- 民主洞の一部が解放里に編入。
- 松郷洞の一部が龍湖里に編入。
- 中央洞の一部が南江洞に編入。
- 1960年10月 - 咸鏡北道羅南市および富寧郡の一部を編入。(7区域)
- 1963年11月 - 咸鏡北道清津市が清津直轄市に昇格。(7区域)
- 1967年8月 - 咸鏡北道羅津郡の一部(連川里・連津里・麻田里・龍済里・富居里・沙口里・橋院里)が富寧区域に編入。(7区域)
- 1970年7月 - 清津直轄市が廃止。咸鏡北道清津市となる。(7区域)
- 1972年7月 - 富寧郡を編入。(8区域)
- 富寧郡の一部(富寧邑・古茂山労働者区・沙河里・石幕里・金降里・兄弟里・最賢里・倉坪里・舞袖里)をもって、富寧区域を新設。
- 富寧郡の残部(橋院里・連川里・麻田里・沙口里・龍済里・富居里・連津里)が青岩区域に編入。
- 1977年11月 - 咸鏡北道清津市が清津直轄市に昇格。(8区域2郡)
- 1978年10月 - 鏡城郡の一部(九徳里)が羅南区域に編入。(8区域2郡)
- 1985年7月 - 清津直轄市が廃止。咸鏡北道清津市となる。(8区域)
- 1985年12月 - 富寧区域が分立し、富寧郡となる。(7区域)
- 1993年1月 - 富潤区域が羅南区域に編入。(6区域)
- 1993年9月 - 羅津市の一部(観海洞・方津洞・洛山洞・梨津洞・三海洞・蘆倉洞・羅石洞・武倉里・西里)が青岩区域に編入。(6区域)
- 1994年3月 - 羅南区域の一部が分立し、富潤区域が発足。(7区域)
- 1995年3月 - 青岩区域の一部(武倉里)が羅津-先鋒市羅津区域に編入。(7区域)
下位行政区画[編集]
- 羅南区域
- 羅北一洞(ラブギルトン)
- 羅北二洞(ラブギドン)
- 羅城洞(ラソンドン)
- 羅興一洞(ラフンイルトン)
- 羅興二洞(ラフンイドン)
- 楽園一洞(ラグォニルトン)
- 楽園二洞(ラグォニドン)
- 龍川洞(リョンチョンドン)
- 梨谷洞(リゴクトン)
- 鳳泉一洞(ポンチョニルトン)
- 鳳泉二洞(ポンチョニドン)
- 鳳泉三洞(ポンチョンサムドン)
- 富岩洞(プアムドン)
- セゴリ洞(セゴリドン)
- 新興洞(シヌンドン)
- 恩徳洞(ウンドクトン)
- 平和洞(ピョンファドン)
- 豊谷洞(プンゴクトン)
- 檜郷洞(フェヒャンドン)
- 龍岩里(リョンアムニ)
- 鳳岩里(ポンアムニ)
- 富潤区域
- 古城一洞(コソンイルトン)
- 古城二洞(コソンイドン)
- 富潤一洞(プユニルトン)
- 富潤二洞(プユニドン)
- ソンバウィ洞(ソンバウィドン)
- 阿陽洞(アヤンドン)
- 千水洞(チョンスドン)
- 漁游里(オユリ)
- 松坪区域
- 康徳一洞(カンドギルトン)
- 康徳二洞(カンドギドン)
- 南浦洞(ナンポドン)
- 沙峯洞(サボンドン)
- 西港一洞(ソハンイルトン)
- 西港二洞(ソハンイドン)
- 松林洞(ソンニムドン)
- 松坪洞(ソンピョンドン)
- 松郷洞(ソンヒャンドン)
- 輸城洞(スソンドン)
- 恩情一洞(ウンジョンイルトン)
- 恩情二洞(ウンジョンイドン)
- 製鉄洞(チェチョルトン)
- 芹洞里(クンドンニ)
- 南夕里(ナムソンニ)
- 龍湖里(リョンホリ)
- 松谷里(ソンゴンニ)
- 月浦里(ウォルポリ)
- 水南区域
- 末陰一洞(マルミルトン)
- 末陰二洞(マルミドン)
- 水南一洞(スナミルトン)
- 水南二洞(スナミドン)
- 新郷洞(シニャンドン)
- 漁港洞(オハンドン)
- 青南洞(チョンナムドン)
- 楸木洞(チュモクトン)
- 楸坪洞(チュピョンドン)
- 新岩区域
- 観海洞(クァネドン)
- 校洞(キョドン)
- 槿花洞(クヌァドン)
- 西興洞(ソフンドン)
- 新岩洞(シナムドン)
- 新津洞(シンジンドン)
- 恩恵洞(ウネドン)
- 天摩洞(チョンマドン)
- 浦項洞(ポハンドン)
- 海岸洞(ヘアンドン)
- 青岩区域
- 観海洞(クァネドン)
- 金バウィ洞(クンバウィドン)
- 羅石洞(ラソクトン)
- 洛山洞(ラクサンドン)
- 洛陽洞(ラギャンドン)
- 連津洞(リョンジンドン)
- 蘆倉洞(ロチャンドン)
- 龍済洞(リョンジェドン)
- 梨津洞(リジンドン)
- 麻田洞(マジョンドン)
- 文化一洞(ムヌァイルトン)
- 文化二洞(ムヌァイドン)
- 方津洞(パンジンドン)
- 三海洞(サメドン)
- 駅前洞(ヨクチョンドン)
- 仁谷一洞(インゴギルトン)
- 仁谷二洞(インゴギドン)
- 静山洞(ジョンサンドン)
- 青岩一洞(チョンアミルトン)
- 青岩二洞(チョンアミドン)
- 解放洞(ヘバンドン)
- 橋院里(キョウォンニ)
- 連川里(リョンチョンニ)
- 富居里(プゴリ)
- 沙口里(サグリ)
- 西里(ソリ)
- 稷下里(チカリ)
- 浦港区域
- 南江一洞(ナムガンイルトン)
- 南江二洞(ナムガンイドン)
- 南江三洞(ナムガンサムドン)
- 南郷洞(ナミャンドン)
- 北郷洞(プキャンドン)
- 産業洞(サノプトン)
- 水北一洞(スブギルトン)
- 水北二洞(スブギドン)
- 水北三洞(スブクサムドン)
- 水源一洞(スウォニルトン)
- 水源二洞(スウォニドン)
- 青松一洞(チョンソンイルトン)
- 青松二洞(チョンソンイドン)
- 青松三洞(チョンソンサムドン)
産業[編集]
概要[編集]
日本統治時代に建設された現在の金策製鉄連合企業所を中心として、現在も鉄鋼業や金属工業が盛んであり、それに伴った交通システムの車両製作工場や化学兵器・化学製品の製造工場もある。しかし、産業発展の負の影響として水質汚染や大気汚染が咸興市に比べればマシだろうが、国内ではかなり深刻だとされる。また1990年代以降には経済情勢の悪化や苦難の行軍による全国的な食糧難に伴い、操業を停止する工場や設備を許可なく転売するような反革命的な工場も現れたり、工場や職場などの労働単位からの配給が途絶えたことによる欠勤の増加などにより清津の経済はさらに著しく悪化した。近年では闇市が規模を拡大させ、一種の市場経済化が国内ではかなり進行している。
農林水産業[編集]
咸鏡北道でも有数の広さを誇る輸城平野を擁し、その広さゆえか耕地面積も広くそのほとんどは畑として使われている。したがって主要な農産物は麦・大豆その他雑穀などである。沿岸では、海流が乱行しており、暖流と寒流の交わるいわゆる潮目にあたり、魚種もプランクトンも豊富で、タラ・イワシ・マダラ・サバなどの漁獲が多く、特にイワシは1930年代後半に漁獲量がかなり増え、繊維化学工業および飼料として大きな役割を占めていた。現在でも朝鮮の石鹸や行燈はイワシ油を使用したものもある。周辺の山地は林産資源が豊富で、その加工業と製材業が発達した。
工業[編集]
鉱業では羅南炭鉱を有する羅南炭鉱連合企業所があり、工業面では豊富な水力資源と周辺の鉄・石炭などの地下資源を利用した製鉄・製鋼・機械・繊維・肥料・造船・維持工業などが発達している。特に日本統治下の1930年代に、満州国が独立して以降日本の大陸侵攻の一大基地として、政治・軍事・産業及び水陸貿易の要旨として急成長した。
貿易[編集]
清津港の開港以来、咸鏡北道地方唯一の外国商品輸出入・消費都市として脚光を受けており、咸鏡線と間島を結んでいた天図鉄道が開通されたとき、道内各地と間島方面からの穀類と日本からの生活必需品の輸入の集散地として市場が大きく発展した。その後、大陸とを結ぶ国際鉄道が咸鏡北道穏城郡にある南陽駅で分岐し、豆満江下流方面へと向かう環状鉄道も敷設されて羅津が終端とされた。そのため。満州との交易は清津からそちらに移って行った。
卸売業[編集]
各種工場建設と水産基地の発展のために港につながる桟橋が増設拡張され、市内複数の場所に公設市場が開設された。その中でも清津市場は青果など各種の農産物と生活必需品が集散して近所の各郡からも多くの商人が集まる毎日開かれる市場である。市南部漁港桟橋付近にある清津水産公設市場は、規模や設備が膨大でイワシ好況時に国内過去最高取引額が出た場所でもある。羅南地区内には、羅南市場と羅南牛市場がそれぞれ1ヶ所あるが市場は五日市であり軍納の屠殺場と皮革工場もあり、取引頭数は平均100頭に達する。このほか、輸城地区内には大小の市場が4箇所あり、様々な農水産物や生活必需品の取引が活発である。
工場・農場[編集]
交通[編集]
鉄道[編集]
平壌駅と羅津駅を結ぶ平羅線、咸鏡北道を北回りに会寧青年駅・穏城駅・羅津駅と結ぶ咸北線の鉄道が多数発着する清津青年駅を擁する鉄道の要衝である。全て単線、直流3000V電化。
軌道電車・無軌道電車[編集]
また、市内には1999年に開業した清津軌道電車と清津無軌道電車が運行している。
- 清津軌道電車
- 南清津〜ポンチョン間
- サボン〜南清津間
- サボン〜清津青年駅間
道路[編集]
清津市の中心部から咸鏡北道内であると金策・羅津・先鋒・茂山・鏡城・漁郎・会寧、遠くは咸興・元山・平壌の方面へと伸びる道路を擁している。朝鮮東北部の道路交通の要衝でもある。
航空[編集]
平壌・咸興への定期便(週1便)が発着する清津空港が、近郊の漁郎郡にある。
港湾[編集]
荷役能力800万t。水深12m、2万t級の船舶が入港できる。朝鮮西海側の南浦港と並ぶ朝鮮最大級の港湾である。1990年代以降のソ連崩壊や経済悪化・苦難の行軍に伴い、設備の4分の3が遊休状態にある。警備艇や工作船などの停泊地や軍港があるため、港湾周囲は警備が厳しいとされている。
日本の舞鶴港、新潟港とを結ぶ貨物船航路があった。戦後の在日朝鮮人帰国事業で利用された。
1999年(平成11年)に発生した能登半島沖不審船事件では、漁船に偽装した2隻の船が最終的に清津港に入港したことが日本政府によって確認されている。
2012年、中国の企業が運営権を確保する契約を北朝鮮港湾総会社と締結し、羅津港も得た中国が事実上租借することになった[6]。当時国防委員会副委員長だった張成沢の意向が働いたとされる。
文化・教育機関[編集]
教育[編集]
- 清津鉱山金属大学
- 咸北大学
- 清津医学大学
- 清津教育大学
- 清津第1教員大学
- 清津第2教員大学
- 呉仲洽清津第1師範大学
- 清津鉱業大学
- 清津技術大学
- 清津共産大学
- 清津国際大学
- 清津海洋大学
- 黎明大学
- 清津鉄道大学
- 清津保健大学
- 清津軽工業大学
- 咸北工業大学
- 咸北農業大学
- 清津体育大学
- 清津軽工業単科大学
- 清津自動化単科大学
- 清津金属単科大学
- 清津農業大学
- 羅南設計専門学校
- 清津第一高等中学校
- 清津外国語学院
- 清津芸術学院
- 清津市学生少年宮殿
文化[編集]
- 清津歴史博物館
- 清津中央工業・農業展覧館
- 浦港体育館
- 清津競技場
- 咸鏡北道図書館
- 咸鏡北道劇場
- 清津映画館
観光[編集]
- 浦港広場
- 金日成銅像
- 松坪市場
- 水南市場