徳富蘇峰
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、文久3年(1863年)1月25日(旧暦) - 1957年11月2日)は、日本の評論家、歴史家。徳冨蘆花の兄。
人物[編集]
肥後国生まれ。本名・猪一郎。熊本バンドに参加し、キリスト教に関心深く、京都の同志社で新島襄の教えを受ける。自由民権運動に参加し、郷里に大江義塾を創設する。1887年民友社を設立し、雑誌『国民之友』を創刊、1890年には『国民新聞』を創刊し、国粋主義に反対する論陣を張る。1893年『吉田松陰』を刊行するが、この頃から日本膨張論に転じ、1895年の日清戦争終戦の際の三国干渉に激しい怒りを発し、以後国粋主義的な論客となる。その後ヨーロッパ・ロシアへ旅してトルストイを訪ねるが、帰国後、松方正義内閣の参事官となり、変節を非難される。
1905年、日露戦争終結のポーツマス条約に対して賛成の立場をとったため、暴徒と化した不満分子により国民新聞社は焼き討ちに遭う。1910年の韓国併合に際しては総督府直系の京城日報社の監督となる。大逆事件に際しては減刑を嘆願したが間に合わなかった。
1918年より、「近世日本国民史」として、織田信長の時代から明治維新までの歴史を、物語風に叙述して長大な著作として書き続けた。特に元禄赤穂事件と西南の役について各一巻が割かれているが、大石を利己的な色狂い、西郷を進歩主義の左翼と批判する部分もある。
芳賀徹は、マルクス主義の歴史学者は、こっそり蘇峰の仕事を参照しながら、表では「変節漢蘇峰」と悪口を言っていたと言う。
1925年、帝国学士院会員、1936年、帝国芸術院会員となる。この両院の会員となったのは、蘇峰、幸田露伴、柳田国男の三人だけである(高橋誠一郎は、学士院会員、芸術院院長だったが、芸術院会員ではなかった)。
満州事変以後は軍部のイデオローグとして活躍し、日本文学報国会会長となり、1943年に文化勲章を受章。1945年にはポツダム宣言の受諾に反対した。
戦後はA級戦犯の容疑をかけられたが病気のため不起訴、公職追放となった。文化勲章は返上、芸術院会員を辞した。95歳没。