鎌田新介
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鎌田 新介(かまた しんすけ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。鎌田3兄弟の3男。兄に助丞・江次がいる。通称は五左衛門(ござえもん)[1]。
生涯[編集]
織田信長に仕えていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際に軍令違反の咎により改易された[1]。しかし信長の嫡子・信忠がその力量を惜しんで招聘して自らの家臣にした(『武家事紀』)。天正10年(1582年)の本能寺の変では二条城にあって信忠に仕えていたが、信忠が自害する際に介錯を務めたという(『信長公記』)。この際、『当代記』では「追腹」して殉死したとされているが、『明智軍記』『武家事紀』『甫庵信長記』では切腹せず、井戸の中に飛び込み約3メートルほど下の積み石が抜けた所に這い入って身を隠し、夜半になってから忍び出たという。
その後、高野山で謹慎していたが、豊臣政権下で大名となった福島正則に召し出されて家臣となり、朝鮮出兵では渡海して慶長2年(1597年)8月の南原城攻撃の際に大きな武功を挙げた(『武家事紀』)。しかし、そのまま朝鮮において客死した[1]。