尊皇攘夷

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尊皇攘夷 (そんのうじょうい)とは、以下の用語である。

  1. 皇室を敬い、排外主義的な思想。
  2. 太平洋戦争中に弾圧された大日本帝国政治結社

本記事では「1」について述べる。

概要[編集]

天皇陛下(皇)を敬おう、外国人(夷狄)を追い出そうという思想である。江戸時代国学の研究から始まった。幕末、水戸藩の藩校、弘道館の教育理念、弘道館記に、初めて「尊王攘夷」の文字が記された[1]

尊王攘夷の表記も散見される。これは、皇帝・天皇を尊ぶというよりは、本来の国の統治者であるべき人を尊ぶという意味で王という字を用いている。

しかし、畏れ多くも「天皇陛下」を敬おうという限り、「王」を用いるのは不適切である。

黒船来航に始まる開国によって経済の破壊によって意識が高まり、尊皇論者は徳川幕府の批判を行い、桜田門外の変坂下門外の変を起こした。さらに長州藩は攘夷の示威行動を示して下関戦争に至り、薩摩藩生麦事件の報復戦となる薩英戦争に挑むが、両藩とも外国軍隊の強力さを目の当たりに晒されて限界を悟り、イギリスと親密になって尊皇開国に転じ、薩長同盟締結のきっかけとなった。

尊王攘夷派の主力は倒幕に傾いていったが、幕府側にも攘夷派が多かった。攘夷を強く望んだ孝明天皇は倒幕運動を敵視していた他、新撰組の組員も多くは攘夷派であった。

大政奉還王政復古後も、攘夷思想は廃れることはなく、明治新政府の対外融和的な姿勢に失望した志士や諸藩によって、明治改元直前の1868年には神戸事件パークス襲撃事件が生じている。
また、国力を回復しつつあった明治20年代も、大日本帝国憲法発布時に欧化主義者の森有礼が刺殺されるなど、排欧思想は廃れることはなく、教育界では儒学者出身の元田永孚が政府内で頭角を表して、西洋的な「学校令」を逆コース的なものに改めている。

小攘夷と大攘夷[編集]

外国人に対する殺傷行為はこれを小攘夷として単なる犯罪行為であるとし、真の攘夷は攻めてくる外国勢力を打ち払う大攘夷とする考え方がある。

矛盾[編集]

現代で尊皇攘夷運動をするとしても、現代の皇室は外国との協調関係を重視している。というより、尊皇と攘夷は本来、直接の関係が薄い概念である。

関連項目[編集]

脚注[編集]