フランス革命

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

フランス革命(フランスかくめい)とは、1789年7月14日から1795年8月22日にかけてフランスで起こった市民革命

概要[編集]

ブルボン朝による絶対王政が廃止され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った。ルソーなどの啓蒙思想、イギリス革命で形成された社会契約説アメリカ独立宣言の思想などが一因になって引き起こされた。

昨今、マイナス評価の評論も出されている[1]

フランス革命での出来事[編集]

革命以前、国民は3つの身分に分けられており、第一身分は聖職者、第二身分は貴族で、それぞれに免税特権が認められており、一方の第三身分は全体の九割を占める平民だった。長年のマリー・アントワネットを筆頭とした貴族による浪費、贅沢三昧が続いていたフランスでは、破綻した財政の立て直しのために、175年ぶりにそれぞれの身分の代表が集って話し合う三部会が、1789年5月5日に開かれた。第一身分から約300人、第二身分から約270人、第三身分から約600人が参加したが、議決方法を各身分でそれぞれ1票か、一人につき1票かで1ヶ月ほど揉めた。各身分で1票では、それぞれの身分から平等に税を取りたい第三身分は、税をかけられたくない第一、第二身分に決して勝てず、一人一票では、第一、第二身分に勝ち目がなくなるから、などの理由である。

三部会でうまくいかない第三身分は、1789年6月18日より、自らを国民議会と称し、国王ルイ16世など外部のいかなる者も彼らの議決に拒否権を持たないと決定した。1789年6月20日に国王は国民議会の集会を禁止し、会場を閉鎖させ、取り締まったが、それで国民議会の勢いが衰えることはなく、第一身分の司祭や司教が国民議会に合流した。

国民議会は国王に抗議してテニスコートになだれこみ、命令に反して「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないこと」を誓った(球戯場の誓い)。国王は、「国王の承認しない議案は一切無効である」と、国民議会の解散を命じた。

オルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルには革命運動のため群衆が集まり、カミーユ・デムーランによる、「武器を取れ」の演説がなされ、約6000人の群衆が軍隊と衝突した。 そして1789年7月14日、パリ市民は、政治犯が収容されている、地下に武器弾薬庫のあるバスティーユ牢獄を襲撃した。結果、国民議会の勝利となり、国王の軍は各地で敗北した。

この日は革命の始まりとされ、今日のフランスでも、フランス革命記念日兼フランス共和国の建国記念日として、祝われている。

また、同年8月には、国民議会によって、基本的な人権を唱える人権宣言が発表された。

10月5日には、約4000人のパリの婦人がパンを要求しに、ベルサイユへ行き国民議会に押し入る事件が起こった(ヴェルサイユ行進)。

国王は軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と和解を宣言した。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑され、有力な宮廷貴族たちは逃亡したが、国王一家は捕虜同然の身としてフランスにとどまった。しかし後に、1791年6月に、一家で国外逃亡を図ったヴァレンヌ逃亡事件がおき、国王は国民の支持を失った。

その後、革命後の政治の形態について立憲君主政、穏健な共和政、急進的な共和制などさまざまな主張が対立していた。その中でも、ブルジョワの支持を受けたジロンド派と、急進的な共和制を目指す山岳派(ジャコバン派)が対立していた。 そこに現れたジャコバン派のマクシミリアン・ロベスピエールは権力を握り、ジャコバン派で独裁政府を作って恐怖政治を行った。対立するジロンド派の人物や自らに反対する人物を次々に処刑していき、最終的にテルミドールのクーデターによって捕らえられ、独裁政府は倒された。

1793年1月にルイ16世が処刑された。

1794年10月、穏健な共和派が主導する総裁政府が成立した。しかし様々な意見の対立により不安定だった。そのような中に安定した政治とフランスの発展を望む国民が指示する、軍人のナポレオン・ボナパルドが現れた。彼はイタリアやエジプトに遠征して名声を高めた後、1799年11月、ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、新たに統領政府を作り、自ら第一統領となった。

脚注[編集]