杉原千畝
私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、岐阜県出身の日本の外交官。リトアニア共和国の在カウナス大日本帝国領事館に駐在時に、ナチス・ドイツの迫害から第三国に逃れようと日本のビザを求めてやってきた多数のユダヤ人に1940年7月から8月まで多数のビザ(命のビザとも呼ばれる)を外務省の意向を無視して独断で発給。6000人程のユダヤ人を助けたとされ「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
生涯[編集]
誕生から満州へ[編集]
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県武儀郡上有知(こうずち)町に生まれる。杉原千畝が生まれたのは岐阜県加茂郡八百津町というのが定説[1][2]であったが、本籍地が八百津町で出生地は美濃市であるともいわれている。前者は、千畝直筆の手記を根拠として、千畝が同町で出生したと主張していた[3]が、後者の主張によると、親族が千畝の本籍地である八百津町の戸籍を確認したところによれば、出生地は武儀郡上有知町(こうずちちょう、現在の美濃市)であることが判明した[3]。この戸籍の記録から「千畝は現在の美濃市で生まれた」と研究者らが主張し、2016年末、日本ユネスコ国内委員会の求めに応じ、八百津を"生誕地"としていた申請書の三か所を"出身地"と書き換えた[4]。 2017年4月に米国で開かれた米国ユダヤ協会(American Jewish Committee)が主宰する「日本のシンドラーホロコースト救援事件における外交のモデル」と題する各国大使が集まる公式会合において、外務省の冨田浩司・在イスラエル特命全権日本大使は、各国大使を前に「杉原の出生地である美濃市」と言及し美濃市が生誕地であることを事実上表明[5]している。また、千畝の四男が美濃市を訪問したこともある[6]。一方、本籍地である八百津町には、杉原千畝記念館も設立されており、リトアニア外相が記念館を視察したり [7]、八百津町の中学生がリトアニアを訪問したりして [8]、杉原千畝本籍地としてリトアニアとの交流を進めている。なお、日本語版ウィキペディアでは、この「生誕地論争」を詳述するかしないかで利用者間で激しい対立が起こり、記事が保護されるというなんとも生産性のない行為が繰り広げられた。
父親の好水(よしみ)が名古屋税務監督局管下の税務署を転々と赴任していたため、幼少期は石川県金沢市、三重県桑名市。岐阜県中津川市で過ごした。小学校三年生の時から名古屋市にて小学校、中学校(当時県立第五中、現在の瑞陵高等学校 [9] [10])を卒業した[11]。
学業優秀で父親からは医者になることを期待されていたが[12]、英語教師なろうとしたために勘当される[13]。
一年浪人の後、1918年(大正7年)に早稲田大学に入学する[11]。父親からの援助はなくアルバイトをしながら早稲田大学に通う[13]。杉原の母親が父好水の目を盗んでいくらかの送金をしていたが、生活費に困窮し色々なアルバイトをしていた[14]。1919年(大正8年)5月に外務省の留学生募集の広告を見て応募する[15]。当時、留学は公費で行われていおり、留学生には生活費が支給されていた[15]。 採用予定者に対して外務省から異例の呼び出しがあり、留学生の採用について専攻外国語がスペイン語に偏っているとともに、スペイン語採用枠が1名であることを知らされ専攻外国語をロシア語に変更した[16]。
外務省留学生に杉原は合格するが、当時はロシア革命直後であり新政権と日本は国交も無くロシア国内への留学は事実上不可能であった[17]。このため、杉原は満州のハルビンに向かった。ハルビンには革命政権を好まないロシア人が多数移住していた。このため日本人がロシア語を学ぶには好適地であった。留学当時、ハルビンにはロシア語専門学校が無かったので、ロシア人宅に下宿しロシア語の家庭教師を雇いロシア語を学んだ[18]。
1920年(大正9年)11月杉原は日本で軍事教練を受けるため帰国を命じられ、1年間志願兵として陸軍に入隊する[19][20]。同年12月に龍山歩兵師団第79聯隊の第9中隊に入営した[20]。志願兵を1年務めたが陸軍より予備役見習士官として甲種勤務演習に服するよう命令された[19]。その頃、母親が死亡したという連絡を受け、訓練中にも涙が止まらなかったという[20][21]。1921年(大正10年)9月に伍長昇進試験に合格。12月に予備役曹長となり現役を終えた。1922年(大正11年)に満期除隊。1924年(大正13年)に予備役少尉の昇進試験に合格している[20]。
1919年(大正8年)にハルビンにロシア語の専門家養成のため外務省所管の日露協会学校(後のハルビン学院)が設立される[22]。杉原も1923年(大正12年)末に除隊したのち聴講生として授業に出ることになった[19]。杉原は英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語[23]、中国語を使いこなすことになる。特にロシア語[23]に堪能である。また、1929年(昭和4年)から約3年間ハルビン学院の講師をしていた[24]。
1924年(大正13年)に杉原は外務省の書記生になり七号俸を得る事になった[23][25]。また、ロシア人女性クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノヴァと結婚した[26]。クラウディアの家族はモスクワから逃れてきた白系ロシア人[注 1]であった。そもそも、杉原とクラウディアの交際は教会の活動を通じて始まった。杉原は早稲田大学時代にロシア正教会に出会い既に洗礼(洗礼名:セルゲイ・パーヴロヴィチ)を受けていたとある[27]。しかし、クラウディアによるとセルゲイ・パーヴロヴィチは神父がつけた名前であり、セルゲイとセンポの発音が似ていること、神父がパーベルという名前であったことからセルゲイ・パーヴロヴィチと名付けられた[28]。また、クラウディアは改宗して欲しいとは望んでいなかったが、杉原は自ら進んでロシア正教に入信したと証言している[28]。白系ロシア人の伴侶を得ることでハルビンの白系ロシア人社会の信頼を得ることとなった[29]。
1932年(昭和7年)杉原は北満鉄道の譲渡交渉のために外務省から満州国政府外交部に出向[30]し、難航する交渉を1935年(昭和10年)、ソ連側の6億5千万円という要求に対して1億4千万円という日本に有利な条件で妥結を実現している[31][32]。この功績に対して関東軍からはスパイになるよう高額の報酬を提示(事実上の命令)されるが、外務省職員としての諜報活動と軍のスパイでは仕事の内容が明らかに異なり、関東軍の申し出を拒否し退任した[33][34]。
このため、関東軍がクラウディアが「ソ連側のスパイである」という噂を流すなどの報復行為を受け、クラウディアだけで無くクラウディアの家族や親しい白系ロシア人にも被害が及ぶことを恐れ、クラウディアと離婚した[35]。しかし、クラウディアの証言によると離婚を切り出したのはクラウディアのほうであり、クラウディアは杉原以外のロシア人の愛人がいたことを認めている。また、堕胎を何度も繰り返したとも話している。杉原は愛人がいても怒らなかったとも証言している[36]。
クラウディアは第二次大戦後にソ連の共産主義体制から逃れるためにオーストラリアに移住した。杉原はシドニーに住むクラウディアと文通をしあっていたり、杉原からクラウディアに贈り物をすることがあったという[37]。
ビザ発給へ[編集]
1935年(昭和10年)7月に帰国する。帰国の理由について帰国後知り合い、後に結婚した幸子夫人には『満州国において日本人が中国人に対してひどい扱いをし、同じ人間と見なしていないことに我慢が出来なかった』[引用 1]と話している。日本本土[注 2]には1919年に留学生としてハルビンへ渡航して16年ぶりの帰国となった。杉原は満州国出向から復職し外務省に勤務することになった。外務省に採用になったのもハルビンであったので霞ヶ関への登庁も初となった[38]。
杉原は帰国後すぐにモスクワ勤務を希望したが配属先は人事課であった。働き盛りの杉原は悶々とした気持ちを抑えることが出来なかった。また、クラウディアとの離婚の際に全財産を渡してしまっていたので経済的に困窮することになった[39]。そんな中、外務省に仕事で出入りしている日本生命の菊池と親しくなった。杉原も菊池も豪快な性格で意気投合した[40]。ある日、酔いつぶれた杉原を菊池が自宅に泊め、そこで幸子とはじめて出会う。幸子は杉原から差し出された名刺を見て「ちうね」と正しく呼んだことに喜びを感じた[41]。杉原は35歳で幸子は22歳と年の差があったが、お互いひかれ合うものがあり杉原からプロポーズし1936年3月に結婚することになる[42]。
杉原と幸子がつきあい始めた頃、杉原のモスクワ赴任が具体的になり始めていた。外務省から在日ソ連大使館を通じて正式に入国ビザ発給申請が行われた[42]。しかしソ連は「好ましからざる人物」と言う理由で入国ビザが発給されなかった。発給されない本当の理由は明かでは無い。しかし、杉原は10年以上ソ連と中国が国境を接するハルビンで諜報活動を行っており、北満鉄道の譲渡交渉での諜報活動中に、ソ連に対して敵愾心を持った白系ロシア人と親密な関係にあり、それ以外にも赤系ロシア人[注 3]、日本の共産党員との接触もあった。杉原千畝がソ連政府にとって「好ましからざる人物」と見られた可能性は高い[43]。杉原の通訳官としてのソ連入国拒否は新聞記事にもなるほどの事件であった[44]。アメリカのヘラルド新聞にも、「外交の歴史の中で尤も不可解な出来事」として論評されていた[45]。気落ちした杉原を慰めたのは幸子であり、1936年(昭和11年)には長男の弘樹が生まれつかの間の平穏な人生を楽しんだ[46]。
1937年(昭和12年)8月、新設された在フィンランド公使館における二等通訳官に赴任することが決まる。また、フィンランドでの業務内容はリトアニアでの領事館設立準備期間であった[46]。リトアニアは第一次世界大戦後ロシアから独立したバルト三国の一国で、ソ連と国境を接していないためソ連との領土争いが無く、比較的ソ連と良好な関係であると言われていた。このため、ソ連の情報を入手しやすいと考えられていた。また、フィンランドもソ連の隣国であり情報収集の拠点と考えられていた。設立準備期間とは諜報活動の準備期間でもあった[47]。
在フィンランド中に次男の千暁が生まれる[48]。1937年(昭和12年)からの2年間は日独伊三国防共協定の調印、ドイツのオーストリア併合、チェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの無条件割譲、独ソ不可侵条約締結、ドイツのポーランド侵攻、ソ連のポーランド侵攻、イギリスおよびフランスのドイツへの宣戦布告、ドイツによるオランダ・ベルギー・フランスの陥落、盧溝橋事件等が発生した。しかし、フィンランドは幸いにも戦火を免れ比較的平和を維持していた[49]。 ヘルシンキで杉原は運転免許を取得し家族と一緒に色々なところにドライブに出かけた。しかしこれは単なる家族サービスではなく、ソ連の動きを把握するための諜報活動が目的であった[48]。
その頃バルト三国のエストニア、リトアニア、ラトビアと日本は良好な関係にあった。フィンランドに公使館が出来たことで、一時エストニアの感情を害することもあったが、ラトビア臨時代理公使を正式な公使に引き上げエストニア、リトアニアの公使を兼任させることで関係の悪化を免れた[50]。
1939年(昭和14年)7月20日、リトアニアの在カウナス大日本帝国領事館の領事代理(実質的に領事)に派遣する辞令が下る[50]。同日、在ソ連大使館書記官の島田滋が新設されたラトビア公使館一等書記官、在ソ連大使館・駐ノボシビルスク副領事などを歴任した太田日出雄はラトビア公使館三等書記官、ロシア大使館の通訳やポーランド公使館での経験のある後藤安嗣は副領事としてポーランド東部のルヴィウに派遣、極東ソ連領にいた本田隆平は一等通訳官として在ソ連大使館に呼び戻された[51]。この人事はノモンハン事件でソ連の圧倒的な火砲により甚大な被害を受けたため、陸軍から外務省が外交交渉による解決を依頼してきたため に対ソ問題のエキスパートをソ連の周辺に配置した[52]。彼ら5名は全てノンキャリアのロシア語専門家で、当時の外務省が対ソ連情報のプロを育成し一斉に派遣したことからノモンハン事件の解決に向けて、外務省の本気度合いが見て取れる[53]。中でも最年少の杉原は比較的安全で問題の少ない地域に派遣され、対ソ連情報収集の経験をさらに積ませることが目的であったにもかかわらず、この後最も困難な問題に直面し苦労することになる[54]。
この時同年8月28日にカウナスに着任する。1940年(昭和15年)7月、ナチスに迫害されて英米に逃れようとした多数のユダヤ人が千畝のいる領事館に押し寄せてきた[55]。ユダヤ難民がシベリア鉄道でソ連を通過するには、日本のビザが必要だったのである。少人数の旅行者などであれば、外務省に問い合せなくても領事の権限だけでビザを発給することができるが、多数の難民にビザを発給するとなると外務省の許可が必要である[56]。
ユダヤ難民の中から選ばれた五人の代表の話を聞き[57]、杉原は何とかビザを発給したいと悩むが、外務省は書類や所持金が十分でない者に日本の通過ビザを発給することを許可しなかった[58]。 杉原は、独断でビザを発給することを決意し[59]、リトアニアを占領したソ連軍の命令によってカウナスを去る8月31日までビザの発給を続けた[60]。その枚数は記録上は2139枚だが、杉原はビザの発給作業を簡略化するために途中から手数料の徴収を取り止めたり、手書きを減らすためスタンプを作成したり、発給の記録を残すことまで省略しており、それ以上の枚数を発給していたことになる[61]。カウナスで日本のビザを取得しナチスから逃れたユダヤ人は6000人というのが定説となっているが、その人数は報道される度に変わっており、一貫性がない。最小では4,000人程、最大では10,000人程と見られる。
杉原リストによれば7月9日からリストは始まり7月25日までは1日4枚程度を発給している。しかし、7月26日以は14枚、7月29日は120枚、30日は261枚、31日は145枚と異常な枚数に膨れあがっている。ビザは家族単位に出されるので1枚のビザで家族3人程度が使用可能である。また、他人であっても夫婦や兄弟や親子を名乗って1枚のビザを最大限に活用した[62]。
リトアニアから脱出したユダヤ人は根井三郎らの助けなどで日本にたどり着いている。 ユダヤ人の最終目的地は便宜的にオランダ領の島キュラソーということになっていた。これは、リトアニアのアメリカ公使館が閉鎖となっていたため、ユダヤ人が次に向かった、まだ閉鎖になっていないオランダ領事館にて領事のヤン・ズヴェルテンディクの発案で、既にドイツ占領下におかれているオランダに向かうよりオランダ領の島キュラソーへの渡航許可を出し日本領事館の杉原を訪ねることを提案した。『「私があなたたちにこの島に渡る許可を出しましょう。貴方たちは、そのビザを持って日本領事館のセンポを訪ねなさい。彼ならきっと通過ビザを出してくれます」』[引用 2]と発言し机の上に積んであった紙に入国許可を書き大量の難民達に渡した[63]。このことがきっかけとなり、日本領事館に大挙してユダヤ人が訪れることになった[63]。
ユダヤ人はリトアニアからソ連を通過することを許可された。既にソ連領と同然リトアニアからソ連を通過するのは国内移動と同じと解釈するというのがソ連大使館の回答であった[64]。日本入国後、杉原が作成した日本通過ビザを使って、ユダヤ人はアメリカ等に逃れている。日米開戦前であり日本からの渡米は可能だったのである。
カナウスから帰国まで[編集]
1940年(昭和15年)8月28日に直ちに領事館を閉鎖しベルリンへ移動する旨の電報が届く[65]。同日はビザの発給を午前中までとし、午後に引越の準備を行う。領事館の扉には『「領事館は閉鎖しました。これからはモスクワの日本大使館でビザをもらってください」』[引用 3]との張り紙をした。モスクワには事前に連絡し今後の対応について依頼済みであった[65]。ベルリンに移動する前の数日間ホテルに滞在したが、そのホテルにもユダヤ難民は押し寄せた。
しかし、領事館印はベルリンへ送付済みであり正式なビザを作成することは不可能であった。しかし、効力はともかくとして杉原はビザの発行を続けた。列車の発車前に杉原は領事館職員でスパイだったグジェにスタンプを渡し『「これは君に預ける。使い方も君次第だ」』 [引用 4]と伝えた[66]。また、グジェが諜報活動をしていたことを告白しようとするも押しとどめた。杉原はその事を知っていてグジェを領事館職員として使っていた[66]。汽車が発車する際に残された多くのユダヤ難民から「ありがとう、センポ」「万歳、ニッポン」と汽車を追うように大きな声が響いた[67]。
ベルリンに到着し大使館に出向くがビザ発給問題については駐ドイツ大使の来栖三郎からは一言も無かった[67]。 しかし、当時の外務大臣松岡洋右にとってみれば、日本の国運をかけドイツとの同盟を結ぶため、ドイツの意向に神経をとがらせていた最中だっただけに腹立たしい問題であった[68]。
1940年9月にチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館に赴任した[67]。プラハの任務は短く、1941年(昭和16年)3月には東プロイセンのケーニヒスベルグに新設される総領事館に移動となった。プラハ駐在中1941年1月に松岡洋右外相から発給したビザ数について問合せの電報が入る[69]。杉原は電報にて『「リトアニア人ならびに旧ポーランド人に与えた通過ビザ通過ビザ二一三二の内、ユダヤ系約一五〇〇と推定する」』[引用 5]と報告した。その後追加報告として2月28日に32枚のタイプで打ったビザ発給表を松岡宛に郵送した。これが後世「杉原リスト」と呼ばれる[70]。外相の松岡も対ドイツに神経をとがらせながらも、ユダヤ人難民の日本滞在期間についてパスポートに押印するゴム印で10日から1ヶ月に延ばすよう示唆し、実際にパスポートには1ヶ月間の日付が押印されている[71]。
ケーニヒスベルグでの杉原の仕事は主に諜報活動でケーニヒスベルグの治安も良くなかったので、杉原は単身赴任するつもりだったが幸子の強硬な反対で家族同行での赴任となる。ケーニヒスベルグでは1941年6月22日のドイツ軍によるソ連侵攻の動向をキャッチする等の諜報活動で成果を上げている[72]。1942年ケーニヒスベルグ総領事館はドイツの要請により閉鎖となり杉原家族一行はルーマニアのブカレストにある日本大使館に移った[73]。ブカレストはまだドイツの力が強く比較的平穏な暮らしをしていた。しかし、ブカレスト市街は爆撃の危険にさらされるようになり、家族同行の杉原家はボヤナブラショフに別荘を借りて疎開することとなる。1944年にはソ連軍が侵攻してくるようになる。そんな中、妻の幸子はシベリウスから直接もらったレコードを取りにブカレストに向かうが、途中車が故障し、ソ連兵に敗れて退散するドイツ兵に助けられる[74]。
1944年(昭和19年)6月6日に連合国軍のノルマンディ降下作戦が敢行され、ドイツ軍は一気に劣勢に立たされ1945年(昭和20年)5月にナチス・ドイツは無条件降伏する[75]。同年8月15日に大日本帝国も無条件降伏した。日本のポツダム宣言受諾により、ルーマニアに駐在していた杉原およびその家族はソ連軍によりルーマニアの兵舎に入れられることになった。同兵舎にはイタリアやドイツの外交官も入れられていた[76]。12月にソ連軍の命令で帰国が決定する[77]。ブカレストから汽車に乗り移動する。同行したのはブカレスト公使館公使および職員、武官の17名だった[77]。汽車で移動し最初にオデッサの収容所に収容される[77]。この後、収容所に数日留め置かれ、再び汽車の旅に出ることの繰り返しが続き三ヶ月以上が経過する。そしてナホトカの収容所に到着する[78]。ナホトカの収容所に数ヶ月収容された後、ウラジオストックに移動し、日本の引き揚げ船興安丸に乗り込むこととなる[79]。
1947年(昭和22年)4月、日本に帰国博多港に到着する。幸子の妹が住み、沼津の実家を焼け出された幸子の母とともに香貫山に、一旦は身を寄せることとなる[80]。その後、神奈川県の鵠沼に外務省の友人の紹介で土地を購入し家を建て移り住む[81]。在外外交官には現地手当が支給されるので外務省からの給料は父親の好水が受取人となっていた。
好水は第二次世界大戦が始まるとソウルから岐阜の八百津に引き揚げていた。また、好水は杉原のために八百津の土地を購入していた。この時期杉原は米を手に入れるために八百津町に帰ったと言う話もある[82]。この土地を売却する事で鵠沼の土地を買うことが出来たとある[83]。また、アメリカのAPONJE(ポンビ商会)に入社した頃に頭金程度の貯えができ、国民金融公庫の借入にて家を建て替えたとある[84]。
杉原は外務省に毎日登庁する事は無く、しばらくは出省しなくても良いと言われ自宅待機となる。外務省より手紙にて出省するようにとの知らせがあり1947年(昭和22年)6月7日、通告によって外務省を依願退職することになる[85]。
外務省退職後[編集]
外務省退職後は、東京PX[注 4]で2年間働く。その間に伸生が生まれる。その後、アメリカのAPONJE(ポンビ商会)にて働く。APONJEは高級服地を扱う貿易会社で社長がロシア語しか話せないのでロシア語の通訳という形で採用となる。
奇遇にも、APONJEの社長はユダヤ人であった[86]。その後も、NHK国際局にてソ連向け放送のための翻訳、科学技術庁にてロシア語、英語、ドイツ語、フランス語などの文献の翻訳やソ連向け宣伝映画の吹き込み等の仕事をしていた[87]。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長として採用される[88]。川上貿易は蝶理株式会社に吸収合併されるが引き続き勤務することとなる。1965年には川上貿易時代の仲間が立ち上げた国際交易に重役として招かれる。都合15年間モスクワに駐在することとなった[89]。
職を転々としながらもリトアニアでのことは自分から周囲に語ることはなかったという[86]。外務省の元同僚からは 『「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」』[引用 6]と語られており、杉原は外務省の人との交際を一切断っていた[90]。
帰国直後に晴生を小児癌で失う[91]。また幸子の妹の節子は10年間杉原家と生活をともにしたが、日本帰国後杉原と親交が深かった小沼文彦と結婚した。結婚1年後に女子を出産する。しかしその三ヶ月後に逝去する[92]。
再会[編集]
1968年(昭和43年)、イスラエル大使館に呼ばれた杉原千畝は、自分をずっと探していたニシュリと再会。ニシュリはカナウスで杉原と話し合った5人のメンバーの一人で、イスラエル大使館の参事官として日本に赴任していた[93]。翌日には幸子もニシュリとの面会を果たす。ニシュリは幸子の手を硬く握り涙を流して喜んだ[94]。杉原自身もビザを渡したユダヤ人が心配で一度イスラエル大使館を訪問し住所を伝えていた[93]。
千畝は、自分の名前を外国人にも発音しやすいように「センポ・スギハラ」と名乗っていたことで、外務省に問い合わせても見つからずに再会までに時間がかかったという。だが、外務省勤務者一覧が記載されている「霞ヶ関会名簿」には杉原姓は3名で、在カウナス大日本帝国領事館のスギハラと言ったら一人しかおらず、妻の幸子は著書の中でお役所仕事の出鱈目振りを指摘している[94]。
1969年(昭和44年)にイスラエルに足を運んだ千畝は、カウナスで千畝に面会した五人のユダヤ難民の代表の一人で、当時のイスラエル宗教大臣であったゾラ・バルハフティクと再会。このときに初めてゾラ・バルハフティクは、外務省が書類の不備などがある人物にビザを発給してはならないという外務省の命令に背いて、何もかも失う覚悟でビザを発給していたことを知った[95]。また『「日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である」』[引用 7]と発言している[96]。
名誉回復[編集]
1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府から千畝は日本人唯一となっている「ヤド・ヴァシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞する[97]。東京のイスラエル大使館での授与式は千畝自身は病気で出席できるような状況ではなく妻の幸子と長男の弘樹が代理で出席した[98]。また同年11月にはイスラエルのエルサレムの丘に杉原の顕彰碑が建てられた。杉原の代理でイスラエルに留学中の四男の伸生が代わりに授賞式に出席し、父親が多くのユダヤ人に感謝されているのを見て息子は父親に感心したと手紙を送付。千畝はそれをみて涙を流したという[99]。
1986年(昭和61年)7月末、妻に「幸子が一番だった」と言い、幸子が冗談で「誰と比べて一番良かったの?」と言ったところ、真面目な杉原は「幸子と一緒になれて本当に良かったと言うことが伝えたかった。」と言った。これが杉原夫妻最後の会話となる[100]。その後、いつまでも目を覚まさないため、病院に搬送される。31日、入院先で目を覚まし、長男の嫁に「ママは?」[注 5]と訊ね「すぐに来ますよ」と聞くと安心して就寝し7月31日そのまま死亡した[100]。
1992年(平成4年)8月12日に杉原千畝の第二次世界大戦の混乱と激動の中、リトアニアにて当時の外務省の指示よりユダヤ難民を危機から救うべく、困難を顧みず行った人道的で勇気ある行動に対し、その功績を称えるとともに後世に伝えるため記念公園として岐阜県八百津町に人道の丘が開園する[101]。また、同地内に2000年7月30日千畝記念館が開館する[102]。
2000年(平成12年)10月10日、外務大臣河野洋平によって、ようやく日本政府から公式に名誉回復が行われた。千畝が外務省を去ってから半世紀以上が過ぎてからのことだった。名誉回復に関する河野の演説は以下のとおりである。
これまでに外務省と故杉原千畝氏のご家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通がかけていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申し上げたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から60年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気になる判断をされたことで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このようなすばらしい先輩を持つ事ができたことを誇りに思う次第です。 [引用 8]
千畝の妻の幸子の手記によると、千畝は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と語っていたという[98]。
その他[編集]
杉原ビザは日本政府の方針に沿ったものだったという説もある。アメリカのラビであるマーヴィン・トケイヤーによれば、杉原のいたリトアニアのみならず、他の在欧日本大使館や領事館、果ては軍人も、多くのユダヤ人にビザを発給したり、彼らの入国を黙認していた。これは本国政府の方針に大筋沿ったものであった。1938年には、満州国手前のソ連側に押し寄せた大量のユダヤ人難民に、樋口季一郎、安江仙弘らが満州入国を許可。入国措置にドイツが強硬な抗議を行ったが、「人道上の配慮」からこれを一蹴したのが、当時関東軍参謀長の職に就いていた東条英機であった[103]。
ピアノを弾く。ハルビン時代の旧友である志村は杉原が3年間ピアノを習っていたと証言している[104]。しかしレパートリーは「乙女の祈り」だけだった。杉原の旧友の志村儀亥知は『杉原がこの曲を弾いていると、ベートーベンやモーツァルトくらい弾けると誰しも考える。しかし、これ一曲しか弾けなかった。日本国歌も弾けなかった! 童謡も弾けなかった! 他に、なんにも弾けなかった!』[引用 9]と語っている[105]。
車の運転は出来るが、ノロノロ運転で交通渋滞を引き起こす常習犯であった。妻の幸子は、そのことを「夫は慎重な運転をする人」と遠回しに表現している。川上貿易のモスクワ支部に勤務していたときは、警官から毎日「スカリー!」(速く)と怒鳴り付けられていたという。千畝が運転を覚えたのは戦前であり、当時の車があまりスピードが出なかったことを考えると無理もないことである[106]。
同じく、川上貿易モスクワ支部に勤務していたときには「KGBからいつも監視されている」と妻に話していた[107]。 酒に強く、妻と二人で一晩でウィスキーを一本飲んでしまったことがある[108][109]。
2006年(平成18年)より旧敦賀港駅舎で開かれていた「人道の港 敦賀」展の常設化のために、金ヶ崎緑地休憩所に「人道の港 敦賀ムゼウム」が開館した。ムゼウムはポーランド語で資料館を意味し、過去に敦賀港に上陸したポーランド孤児やユダヤ人難民と敦賀の人々の関わりや歴史を紹介している。杉原が発行したビザを使ってリトアニアを脱出したユダヤ人は敦賀港経由で日本に入国している[110] [111]。
2016年(平成28年)、名古屋市では杉原が少年期の約10年間を名古屋で過ごしたことにちなみ、当時の居住地付近(中区平和一丁目)から出身校である平和小学校や県立第五中学校(現在の県立瑞陵高校)を結んだ経路を「杉原千畝人道の道」と名付け、銘板等を設置して杉原千畝の功績を伝えている[112]。
2017年、「杉原リスト」が「世界の記憶」(世界記憶遺産)への登録を見送られた[113] [114] 。
イスラエルでは杉原存命中の1985年にその功績を讃えて、同国中部のベイトシェメシュ近郊で約400本の木が植樹され、記念碑も設置された。2019年になって植樹された木々が伐採され、記念碑も撤去されたことが判明し、ベイトシェメシュの学校側が敷地内に新たな記念碑設置などを決めたという。13歳のときに杉原からビザを受け取ったイスラエルの91歳の男性は「私たちの命を救ってくれた杉原の名前が刻まれた記念碑が再び設置されて嬉しい」と喜んだという。
ゆかりの地[編集]
作品[編集]
親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
引用[編集]
- ↑ 白石仁章著『諜報の天才 杉原千畝』P=55 5-6行目
- ↑ 白石弘著『6千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』P=84 5-7行目
- ↑ 白石弘著『六千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』p=93 4行目
- ↑ 白石弘著『六千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』p=94 10行目
- ↑ 渡辺勝正著 『決断・命のビザ』p=187 5-6行目
- ↑ 杉原幸子著『六千人の命のビザ・新版』 p=151 4-6行目
- ↑ 白石弘著『六千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』 p=159 12-14行目
- ↑ 白石弘著『六千人の命を救った男 杉原千畝とその時代』p=162 13行目からp=163 8行目
- ↑ ヒレル・レビン著『千畝 一万人の命を救った外交官杉原千畝の謎 新装版』P=252 4-6行目
出典等[編集]
- ↑ 白石仁章 2016, p. 14.
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- ↑ “命のビザ、八百津から世界へ 記憶遺産登録へ高まる期待”. 中日新聞. (2017年2月6日). オリジナルの2017年2月6日時点によるアーカイブ。 2017年2月6日閲覧。
- ↑ “Japanese ‘Schindler’ a model of diplomacy at Holocaust remembrance event - Diaspora”. Jerusalem Post. (2017年4月22日) 2017年4月23日閲覧。
- ↑ “千畝氏の出生たどる 戸籍記載の美濃市の寺 四男が訪問”. 岐阜新聞 (2016年7月12日). 2017年4月11日確認。
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参考文献[編集]
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- 白石仁章 『諜報の天才 杉原千畝』 新潮社〈新潮選書〉、2011年2月25日、初版。ISBN 978-4-10-603673-6。
- 白石仁章 『杉原千畝 情報に賭けた外交官 』し-79-1、新潮社〈新潮文庫〉、2015年10月1日、初版。ISBN 978-4-10-120066-8。
- 白石仁章 『六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝』 株式会社PHP研究所、2016年3月10日、初版第5刷。ISBN 978-4-569-78410-6。
- 杉原幸子 『六千人の命のビザ・新版』 杉原千畝記念財団設立事務局、1994年4月25日、第2版。ISBN 4-8117-0307-3。
- ヒレル・レビン 『千畝 一万人の命を救った外交官杉原千畝の謎 新装版』 諏訪澄・篠輝久編集、諏訪澄・篠輝久訳、清水書院、2016年1月20日、新装版第2刷。ISBN 978-4-389-50046-7。
- 渡辺勝正 『決断・命のビザ』 杉原幸子、大正出版、2011年4月1日、第5版第2刷。ISBN 4-8117-0308-1。