杉原千畝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
移動先: 案内検索
意見募集
内容に関する意見が出されています。
議論はノートページで行われています。

この記事の主執筆者です。
杉原千畝胸像
杉原千畝記念館

杉原 千畝(すぎはら ちうね、明治33年(1900年1月1日 - 昭和61年(1986年7月31日)は、日本外交官リトアニア共和国の在カウナス大日本帝国領事館に駐在していたときに、ナチス・ドイツの迫害から第三国に逃れようと日本のビザを求めてやってきた多数のユダヤ難民に1940年7月から8月まで多数のビザ(命のビザとも呼ばれる)を独断で発給。6000人程のユダヤ人を助けたとされ、「日本のシンドラー」とも呼ばれる。

生涯[編集]

満州へ[編集]

明治33年(1900年)1月1日、岐阜県武儀郡上有知(こうずち)町に生まれる。杉原千畝が生まれたのは岐阜県加茂郡八百津町というのが定説[1][2]になっているが、正確には本籍地が八百津町で出生地は美濃市である。千畝の四男が美濃市を訪問したこともある[3]。 本籍地である八百津町には、杉原千畝記念館も設立されており、リトアニア外相が記念館を視察したり [4]、八百津町の中学生がリトアニアを訪問したりして [5]、杉原千畝本籍地としてリトアニアとの交流を進めている。

学業優秀で父親からは医者になることを期待されていたが[6]、英語教師なろうとしたために勘当される[7]

父親からの援助はなく、アルバイトをしながら早稲田大学に通う[7]。母親から少々の仕送りはあったが生活費に困窮し、外務省の留学生募集の広告を見て応募する[8]。当時、留学は公費で行われていた。しかも、留学生には一般のサラリーマンの賃金を上回る程の生活費が支給されたのである。1919年、ハルビン学院(日露協会学校)に入学[9]、早稲田大学を中退。 外務省から「今は英語よりもロシア語を勉強するべきだ」と言われロシア語を学んだ。千畝は英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、中国語を使いこなすことになる。特にロシア語に堪能である。 シベリア出兵では陸軍に志願。陸軍少尉の肩書きも持つ。その頃、母親が死亡したという連絡を受け、訓練中にも涙が止まらなかったという。

ロシア人女性クラウディア・セミョーノヴナ・アポロ ノヴァと結婚しているが、この頃に関東軍がクラウディアが「ソ連側のスパイである」という噂を流すなどしており、離婚している。 クラウディアは第二次大戦後にソ連の共産主義体制から逃れるためにオーストラリアに移住した。千畝はシドニーに住むクラウディアに会いに行ったり、贈り物をすることがあったという。クラウディアと結婚した頃、ロシア正教の洗礼を受けている。だがそれは、信仰心からなのか、娘が異教徒と結婚することに反対するクラウディアの両親から、結婚を許可してもらうための形式的なものだったのかは不明である。

昭和7年(1932年)には満洲国外交部事務官に就任。

ビザ発給へ[編集]

昭和14年(1939年)にリトアニアの在カウナス大日本帝国領事館の領事代理(実質的に領事)に就任[10]。同年8月28日にカウナスに着任する。昭和15年(1940年7月、ナチスに迫害されて英米に逃れようとした多数のユダヤ人が千畝のいる領事館に押し寄せてきた[11]。ユダヤ難民がシベリア鉄道でソ連を通過するには、日本のビザが必要だったのである。少人数の旅行者などであれば、外務省に問い合せなくても領事の権限だけでビザを発給することができるが、多数の難民にビザを発給するとなると外務省の許可が必要である[12]

ユダヤ難民の中から選ばれた五人の代表の話を聞き、杉原は何とかビザを発給したいと悩むが、外務省は書類や所持金が十分でない者に日本の通過ビザを発給することを許可しなかった[13]。 杉原は、独断でビザを発給することを決意し[14]、リトアニアを占領したソ連軍の命令によってカウナスを去る8月31日までビザの発給を続けた[15]。その枚数は記録上は2139枚だが、杉原はビザの発給作業を簡略化するために途中から手数料の徴収を取り止めたり、発給の記録を残すことまで省略しており、それ以上の枚数を発給していたことになる。カウナスで日本のビザを取得しナチスから逃れたユダヤ人は6000人というのが定説となっているが、その人数は報道される度に変わっており、一貫性がない。最小では4000人程、最大では8000人程と見られる。

リトアニアから脱出したユダヤ人は根井三郎らの助けなどで日本にたどり着いている。 ユダヤ人の最終目的地は便宜的にオランダ領の島キュラソーということになっていたが、日本からアメリカ等に逃れている。日米開戦前であり日本からの渡米は可能だったのである。

帰国[編集]

1947年4月、日本に帰国。1947年6月7日、通告によって外務省を依願退職することになる[16]。そして、職を転々としながらもリトアニアでのことは自分から周囲に語ることはなかったという。 帰国直後に晴生と節子は死亡。収容所暮らしや戦後の栄養不足によって健康を害したものと思われる。

再会[編集]

1968年、イスラエル大使館に呼ばれた杉原千畝は、自分をずっと探していたニシュリと再会。千畝は、自分の名前を外国人にも発音しやすいように「センポ・スギハラ」と名乗っていたことで、外務省に問い合わせても見つからずに再会までに時間がかかったという。だが、在カウナス大日本帝国領事館のスギハラと言ったら一人しかおらず、妻の幸子は著書の中でお役所仕事の出鱈目振りを指摘している。

1969年にイスラエルに足を運んだ千畝は、カウナスで千畝に面会した五人のユダヤ難民の代表の一人で、当時のイスラエル宗教大臣であったゾラ・バルハフティクと再会。このときに初めてゾラ・バルハフティクは、外務省が書類の不備などがある人物にビザを発給してはならないという外務省の命令に背いて、何もかも失う覚悟でビザを発給していたことを知った。

名誉回復[編集]

1985年1月18日、イスラエル政府から千畝は日本人唯一となっている「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝自身は病気で出国できるような状況ではなく、四男の伸生が代わりに授賞式に出席し、父親が多くのユダヤ人に感謝されているのを見て息子は父親に感心したと手紙を送付。千畝はそれをみて涙を流したという。

1986年7月末、妻に「幸子が一番だった」と言い、その後、妻と少々のやり取りをした後で眠りに付くが、いつまでも目を覚まさないため、病院に搬送される。31日、入院先で目を覚まし、息子の妻に「ママは?(幸子は?)」と訊ね「すぐに来ますよ」と聞くと安心して就寝し、そのまま死亡した。

2000年10月10日、外務大臣河野洋平によって、ようやく日本政府から公式に名誉回復が行われた。千畝が外務省を去ってから半世紀以上が過ぎてからのことだった。

千畝の妻の幸子の手記によると、千畝は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と語っていたという。

その他[編集]

ピアノを弾くが、腕前はピアノ教室に通う小学3年生程度で「乙女の祈り」をなんとか弾けたくらいである。

車の運転は出来るが、ノロノロ運転で交通渋滞を引き起こす常習犯であった。妻の幸子は、そのことを「夫は慎重な運転をする人」と遠回しに表現している。川上貿易モスクワ支部に勤務していたときは、警官から毎日「スカリー!」(速く)と怒鳴り付けられていたという。千畝が運転を覚えたのは戦前であり、当時の車があまりスピードが出なかったことを考えると無理もないことである[17]

同じく、川上貿易モスクワ支部に勤務していたときには「KGBからいつも監視されている」と妻に話していた[18]。 酒に強く、妻と二人で一晩でウィスキーを一本飲んでしまったことがある[19]


作品[編集]

親族[編集]

  • 杉原好水 - 父
  • 杉原やつ - 母
  • クラウディア - 最初の妻
  • 杉原幸子 - 二人目の妻
  • 菊池節子 - 杉原幸子の妹
  • 杉原弘樹 - 長男
  • 杉原千暁 - 次男
  • 杉原晴生 - 三男
  • 杉原伸生 - 四男

脚注[編集]

  1. 白石 2016, p. 14.
  2. 杉原千畝関連年表”. 杉原千畝記念館. 2017年9月13日閲覧。
  3. 千畝氏の出生たどる 戸籍記載の美濃市の寺 四男が訪問”. 岐阜新聞2016年7月12日). 2017年4月11日閲覧。
  4. リトアニア外相が八百津・千畝記念館を視察”. 中日新聞2017年5月9日). 2017年9月16日閲覧。
  5. 深まれ!千畝が紡いだ絆 八百津の中学生がリトアニア訪問”. 中日新聞2017年9月1日). 2017年9月16日閲覧。
  6. 白石 2016, p. 18.
  7. 7.0 7.1 白石 2016, p. 19.
  8. 白石 2016, p. 20.
  9. 白石 2016, p. 27.
  10. 白石 2016, p. 52.
  11. 白石 2016, p. 81.
  12. 白石 2016, p. 80-81.
  13. 杉原 1994, p. 29.
  14. 杉原 1994, p. 32.
  15. 杉原 1994, p. 42.
  16. 杉原 1994, p. 150.
  17. 杉原 1994, p. 164.
  18. 杉原 1994, p. 163.
  19. 杉原 1994, p. 62.

参考文献[編集]

  • 『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)
  • 『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』(金の星社)
  • 白石仁章 『六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝』 株式会社PHP研究所、2016年3月10日、初版第5刷。ISBN 978-4-569-78410-6
  • 杉原幸子 『六千人の命のビザ・新版』 杉原千畝記念財団設立事務局、1994年4月25日、2nd。ISBN 4-8117-0307-3

外部リンク[編集]