杉原幸子
杉原 幸子(すぎはら ゆきこ、1913年 - 2008年10月8日[1])とは、外交官夫人である。杉原千畝の再婚相手。
人物[編集]
旧姓は菊池。父親が学校長(香川県立志度商業学校、現香川県立志度高等学校)をしていた関係で香川県に住んでいた。昭和十年、13歳年上の杉原千畝から『「あなたなら外国に連れて行っても恥ずかしくない」』[引用 1][2][3]と言われて結婚。
杉原千畝とフィンランドの日本公使館に滞在中、作曲家のシベリウスからサイン入りのレコードを貰う[4]。その後、千畝のリトアニアへの転勤に同行[5]。
杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民にビザを発給したときには、在カウナス大日本帝国領事館に住んでいた[6]。
ルーマニアの日本公使館に滞在中、首都ブカレストからボヤナブラショフに疎開する。ブカレストに置き忘れたシベリウスのサイン入りのレコードを千畝に内緒で運転手とブカレストに取りに行ったとき車が故障、運転手と車を残してドイツ軍の車に乗せてもらうが戦闘に巻き込まれる[7]。
杉原幸子はユダヤ難民へのビザ発給には直接関与していないが夫人の視点から見た杉原千畝の伝記「六千人の命のビザ」の著者である[8]。
日本語とロシア語とドイツ語を話す[9]。ロシア正教の洗礼を受けている[10]。
六千人の命のビザ[編集]
杉原幸子の著書で、杉原千畝の伝記としては最も正確なものと考えられる。杉原千畝のことがドラマや映画になる度に、余計なことが付け加えられていくのは残念なことである。
この本はユダヤ人が期待するような親ユダヤ反ナチスの本ではない。内容は意外なほど親ドイツ的である。
ナチスによる白バラ運動への弾圧を問題視する記述はあるが、ドイツ軍人の崇高な精神を称賛している部分の方が目立つ。ソ連兵に関しては略奪した時計を腕に三つも四つも付けて喜んでいるなどの批判的な描写をしている[11][12]。
ドイツ軍人が品行方正であったことは間違いない。実際、フランスを占領したドイツ将兵による略奪や女性への暴力などは殆ど起こっておらず、アメリカ軍がフランスを解放して駐留すると、それらが多発したのである。
杉原千畝がケーニヒスベルクで領事をしていたときにはヒトラーユーゲントが挨拶に来て息子たちと遊んでくれたことや鯉のぼりを立てたらドイツで新聞報道されたなどの楽しい出来事も書かれている[13]。
シベリウスから貰ったレコードを、ルーマニアで疎開先のボヤナブラショフからブカレストに取りに行ったとき車が故障したが、親切なドイツ兵が軍用車に乗せてくれたことなども書かれている[7]。
杉原幸子は、ドイツ軍の車に乗せてもらったものの、そのまま敵の攻撃を避けるためにドイツ軍と共に森に隠れる。このときドイツの将兵は突然現れた遠い同盟国の女性に並ならぬ興味を持ったようである。
間もなく戦闘が始まるというときも、杉原幸子はドイツ軍と一緒にいると少しも恐怖を感じなかったという。戦闘になり、その際にデューラーという名のドイツ空軍の将校が、自分の体を盾にして杉原幸子を敵の攻撃から守り戦死したこと、杉原幸子は、そのナチスの将校を命の恩人として感謝し続けていることなども書かれている[14]。尚、デューラーの遺体が他の将兵の遺体とともに戦友たちによってルーマニアの森に葬られるときに、デューラーの軍服から取り外してきた襟章を杉原幸子は日本に持ち帰って保管しており[15]、この出来事が事実であることは間違いないと思われる。「将兵を満載したトラックやジープ」という表現があるが、ジープというのはアメリカのウィリス・オーバーランド社の登録商標であり、杉原幸子は戦後に見たアメリカ軍の小型軍用車ジープとナチスドイツの小型軍用車キューベルワーゲンを混同しているようである[16]。
ナチスの将校が自分の体を盾にして同盟国の外交官夫人を守り抜いたという事実[14]は、極端な反ナチス思想や、極端な親ユダヤ思想の持ち主にとって不愉快なことに違いない。彼らにとってナチスの将校は悪魔のような存在でなければ都合が悪いのである。杉原千畝のことが最初にドラマ化されたときにはデューラーは登場していたが、その後のドラマや映画には登場しなくなっている。
シベリアの収容所で[編集]
戦後、シベリアの収容所に入れられていたときには、近くの農民が収容所に売りに来る野菜を買うことが認められていたこともあり、杉原幸子は自分に支給された食料を、抑留されていた日本兵に与えていたという[17]。
同じく抑留されていた者の中に、帰国を認められたにも関わらず「兵を残して帰国はできない」と言って収容所に残ったドイツの将校がおり、その人物はドイツの名門ホーエンツォレン伯爵であったという[18]。日本から見てもドイツから見てもソ連から見ても称賛に値する態度である。しかし、ユダヤ的に考えると、そのような態度は損ということになる。
カウナスの日本領事館内からユダヤ難民を撮った写真が一枚残っている。それは、収容所で写真を全て没収されそうになったときに、杉原幸子が「子供が写っている写真は返して」と言って、ソ連の憲兵から強引に奪い返してきた写真の中に偶然、混入していたものである[19]。
いつも千畝に通訳をさせ、日本語が全く分からない振りをしていたソ連の将校が実は日本語に堪能で、日本語で言っていたソ連への悪口が全て筒抜けだったことが分かり、ソ連の恐ろしさを思い知らされたという。
嘘[編集]
六千人の命のビザには、杉原千畝はビザを発給する際にユダヤ難民の一人一人に「万歳ニッポン」と言わせたと書かれている。1986年に読売新聞が杉原千畝のことを大きく報道したときにはフェルドブラムという人物が「杉原千畝はビザを発給するときに『万歳ニッポン』と言わせた」と、読売新聞の記者にコメントしている。しかし、杉原千畝のドラマや映画の中にはユダヤ難民がビザを受け取るときに「バンザイ ニッポン」と言うシーンはない。あまりにも不自然で、そのようなシーンを挿入できないのである。何千人ものユダヤ人の一人一人にそんなことを言わせる余裕などあったわけがない。
ドラマの中でユダヤ難民が、杉原千畝が乗った汽車を見送るとき「万歳ニッポン」と言うシーンはあるが、あまりにも不自然である。ドラマ全体がぶち壊しになるくらいの不自然さなのである。また、万歳と固有名詞を組み合わせる場合、固有名詞の後に万歳を付けるのが普通である。召集された若者を称えるときなどは「姓名→万歳」となるのである。天皇陛下を称えるときは「万歳天皇陛下」とは言わず「天皇陛下万歳」と言うのである。万歳ヒトラーユーゲントという歌はあるが、それは曲に合わせるために「万歳」をヒトラーユーゲントの前に付けたに過ぎないのである。
日本語の「万歳」に近い外国語に、イタリア語の「viva」がある。イタリア語の場合、固有名詞の先にvivaを付けるのである。日本語の文法に疎いユダヤ人が、右翼を懐柔するために考えた嘘である可能性が高い。本来ならば「ニッポン万歳」になるのである。ユダヤ人が、日本語の二つの単語をイタリア式の文法で組み合わせてしまったようである。
息子が血を流して帰ってきて「『日本は絶対に負けない』と言って石をぶつけられた」と言ったと書かれている。外国に滞在する幼い子供が、現地の同年代の子供たちと遊ぶことは可能であろう。しかし「日本は負けない」と何語で言ったのだろうか?これは完全に作り話か、枢軸国の人間という理由でイジメに遭った出来事を意図的に違う形で書いたものであろう。
杉原幸子は著書の中で、杉原千畝がヤド・バシェム賞を受賞したことがマスコミにて報道され「感動した」といった内容の手紙や、外務省への怒りが書かれている手紙が多く寄せられたが、中には「サインが欲しいので送って欲しい」といった手紙や「国賊だ。許さない」という右翼関係者からの脅迫もあったと書いている[20]。
シベリア出兵では杉原千畝が陸軍に志願、陸軍少尉の肩書きを持っていることも書いている。それは事実だと思われるが、右翼団体関係者を懐柔するために、杉原千畝はチンピラ右翼など足元にも及ばぬ程の愛国者で、大日本帝国陸軍の将校なのだと印象付けるためであったと思われる。
更に、息子は父親以上の筋金入りの愛国者だということにしたのだろう。これらはユダヤ人が考えそうなことであり、ユダヤ人団体から杉原幸子への入れ知恵と思われる。
結果において、杉原一家が右翼から攻撃されることは無くなったのである。
著書[編集]
単著[編集]
- 杉原幸子 『白夜―歌集』 新星書房、1961年。
- 杉原幸子 『六千人の命のビザ―ひとりの日本人外交官がユダヤ人を救った』 朝日ソノラマ、1990年6月。ISBN 978-4257032915。
- 杉原幸子 『新版 六千人の命のビザ』 大正出版、1994年3月。ISBN 978-4811703077。
- 杉原幸子 『白夜―歌集』 大正出版、1995年9月。ISBN 978-4811720012。
共著[編集]
- 杉原 幸子(著)、杉原弘樹(著) 『杉原千畝物語―命のビザをありがとう』 金の星社、2003年6月。ISBN 978-4323090276。
監修[編集]
- 渡辺勝正(編著)、杉原幸子(監修) 『決断・命のビザ』 大正出版、1996年12月。ISBN 978-4811703084。
家族[編集]
- 杉原千畝 - 夫[1]
- 杉原弘樹 - 息子(長男[21])
- 杉原千暁 - 息子(次男[22])
- 杉原晴生 - 息子(三男[23])
- 杉原伸生 - 息子(四男、末弟[24][25])
- 杉原千弘 - 孫(NPO「杉原千畝 命のビザ」理事長[26])
- 杉原晴香 - 孫(伸生の娘、歌手[27])
- 杉原織葉 - ひ孫(女優[28])
脚注[編集]
引用[編集]
- ↑ 『六千人の命のビザ・新版』杉原幸子著 p=56 9行目
出典等[編集]
- ↑ a b JJ (2015年7月4日). “6000人の命を救った杉原千畝の妻と子供は今どうしているのか?”. INFO HACK. 2017年4月11日確認。
- ↑ 杉原 1994, p. 56.
- ↑ 白石仁章 2011, p. 62.
- ↑ 杉原 1994, p. 68.
- ↑ 杉原 1994, p. 70.
- ↑ 杉原 1994, p. 14.
- ↑ a b 杉原 1994, p. 197.
- ↑ 杉原 1994, p. 239.
- ↑ 杉原 1994, p. 119.
- ↑ 杉原 1994, p. 153.
- ↑ 杉原 1994, p. 82.
- ↑ 杉原 1994, p. 87-89.
- ↑ 杉原 1994, p. 81-82.
- ↑ a b 杉原 1994, p. 116.
- ↑ 杉原 1994, p. 115.
- ↑ 杉原 1994, p. 113.
- ↑ 杉原 1994, p. 140.
- ↑ 杉原 1994, p. 131.
- ↑ 杉原 1994, p. 137-138.
- ↑ 杉原 1994, p. 177.
- ↑ “杉原弘樹さん(すぎはらひろき)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ “杉原千暁さん(すぎはらちあき)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ “杉原晴生さん(すぎはらはるき)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ “杉原伸生さん(すぎはらのぶき)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ 週刊新潮 『世界記憶遺産「杉原千畝」骨肉訴訟に勝った四男の独白』 新潮社、2016年12月1日。
- ↑ “杉原千弘さん(すぎはらちひろ)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ “杉原晴香さん(すぎはらはるか)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
- ↑ “杉原織葉さん(すぎはらおりは)”. 昭和ガイド. 2017年4月11日確認。
参考文献[編集]
- 杉原幸子 『六千人の命のビザ・新版』 杉原千畝記念財団設立事務局、1994年4月25日、第2版。ISBN 4-8117-0307-3。
- 白石仁章 『諜報の天才 杉原千畝』 新潮社〈新潮選書〉、2011年2月25日、初版。ISBN 978-4-10-603673-6。