日本レコード大賞
『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する、音楽に関する賞である[1]。
毎年、TBSにて『輝く!日本レコード大賞』が12月30日に放送されている。
問題点[編集]
現在の日本レコード大賞は23人の審査委員の審査により大賞が決定される。この審査基準の長所としては単純な売り上げだけでなく楽曲の内容、詞の奥深さなどを加味し総合的にその年の最優秀楽曲を決定できるという点にある。逆に審査基準が明確ではないことから、審査委員と特定の芸能事務所やレコード会社との癒着疑惑を未だに晴らせないというジレンマがある。「レコード大賞は出来レース」「レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっている」等と揶揄する声は常に付きまとう。
近年は音楽そのものに対する考えの変化から、出演やノミネートそのものを辞退するアーティストが増えている。また、「優秀作品賞」と「新人賞」は当日テレビ生出演可能な歌手のみノミネートしている。その影響か「大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた『作品』」という「優秀作品賞」のハードルが非常に低くなっている。一方、浜崎あゆみの受賞以降は総合的な音楽業界への貢献度(全体のセールス)やTBSのタイアップの高さなどが評価された「歌手」を重視する傾向となっており、「楽曲」に授与するというレコード大賞の本来の目的から外れている状況にある。国民的に支持される楽曲が生まれにくい現状が、こういう事態を招いていると考えられる。
これらの疑惑もあり[2][3]、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)[4]。これにより賞の権威は大きく低下し[3]、第36回(1994年)には大賞受賞者が授賞式に出席しないという異例の事態となった。それ以降、歌手が受賞を辞退した場合又は歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。
2003年までは一応、その年に活躍または代表する歌手や曲が選ばれていることから多少の批判が出ても概ね妥当とされてきたが、2004年から明らかに受賞に疑問と言えるアーティストが名を連ねるようになり、レコード大賞はインチキなのではないかという疑惑が広がりはじめた。その後、2016年の3代目J Soul Brothersが1億円で大賞を買収したことが発覚したことで事実として認識されるようになった。
「レコード」大賞というタイトル自体が時代遅れとする指摘もある。しかし時代の主力音盤の媒体が変わる毎に名前を変えると、これまでの伝統が失われるという理由で今後もこのタイトルで行われる(「レコード」のもう1つの意味合いとして「記録」にもかけているとされる)。また業界内では記録媒体の総称をレコードとするため、特に気にする向きも無いようである。
癒着疑惑・事件[編集]
第6回(1964年)[編集]
この年は村田英雄の『王将』が同名の映画の主題歌として大ヒットし翌1965年に掛けて150万枚を越える大ヒットを記録したが、大賞受賞曲は売り上げでは『王将』に遥かに及ばない青山和子の『愛と死をみつめて』であった。これは、映画『愛と死をみつめて』の主演・吉永小百合がレコード大賞創設に大きく貢献した作曲家・吉田正の弟子であったためと言われている。
第8回(1966年)[編集]
この年は加山雄三の『君といつまでも』が自身が主演した映画の挿入歌として300万枚を越える大ヒットを記録し、その中の歌詞「幸せだなあ」が流行語になるほどの大ヒットを記録した。当時のマスコミもこの年の大賞は「加山で決まり」と評していた。しかし、売り上げも少なくヒット曲とは言えない橋幸夫の『霧氷』が受賞した。橋も吉田正の弟子である。
第14回(1972年)[編集]
この年は上半期の大ヒット曲である小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』が大賞の最有力候補だったが、9月に発売されヒットチャートを急上昇し始めたちあきなおみの『喝采』が大賞候補に急浮上し両曲が歌唱賞を受賞。2曲がデッドヒートを繰り広げる形となり、大逆転で『喝采』が大賞を受賞した。最優秀歌唱賞は『あの鐘を鳴らすのはあなた』で和田アキ子が受賞。ヒット曲ではなかったこともあり物議を醸す。また最優秀新人賞は激戦となり、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞の森昌子、三善英史に加えて人気の高かった郷ひろみの争いになると予想されていたが決選投票の末にセールス面で一歩リードしていた麻丘めぐみが逆転受賞した。
第21回・第24回(1979-82年)[編集]
ジュディ・オングの『魅せられて』、細川たかしの『北酒場』が各々初の受賞を果した第21回(1979年)と第24回(1982年)には共に日本歌謡大賞の大賞を受賞して有力であった西城秀樹の『YOUNG MAN』(1979年)、岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』(1982年の日本テレビ『火曜サスペンス劇場』テーマ曲)が外国人の作曲であることを理由にノミネートを見送られたというエピソードがある。西城は『勇気があれば』という別の楽曲でのノミネートになり事実上大賞レースから外れ、さらに岩崎はこの年ノミネートさえされない事態になり様々な論議を呼んだ。
第27回・第28回(1985・86年)[編集]
中森明菜が第27回(1985年)に『ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕』で、第28回(1986年)に『DESIRE -情熱-』で2年連続の大賞を受賞し史上初の女性歌手の2年連続大賞を受賞した。なお1986年のオリコン年間売り上げ第1位になった石井明美の『CHA-CHA-CHA』は外国人の作曲だったが、石井が新人賞にノミネート[5](最優秀新人賞は逃している)されると同時に特別賞として外国音楽賞が授与された。これまでとは異なり、外国人の作曲に一時的ではあるが門戸が開かれたケースである。なおこの楽曲は、TBSで放送された大ヒットドラマ『男女7人夏物語』の主題歌だった。
第29回・第30回(1987・88年)[編集]
第29回は近藤真彦が『愚か者」で念願の大賞を受賞した。『命くれない』が1987年の年間レコードセールス1位になり2つの有線大賞を受賞した瀬川瑛子、『難破船』で史上初の3連覇を狙った中森明菜は急遽新設された特別大衆賞で配慮された。近藤の授賞式直前に近藤の母親の遺骨が盗難され、「レコード大賞を辞退しろ」などと書かれた脅迫状がレコード会社に送り付けられるという事件が起こった。翌年の第30回(1988年)も光GENJIが『パラダイス銀河』で大賞を受賞し、ジャニーズ事務所所属の歌手が2年連続の受賞となった。しかしながら、男性アイドルの大賞受賞は第30回を最後に現在まで生まれていない。
第31回(1989年)[編集]
同年の日本有線大賞の大賞を受賞し、2曲がオリコンの年間1位と2位を占めて最有力候補とよばれていたプリンセス・プリンセス、工藤静香、長渕剛などの辞退で賞の形骸化が顕著となった。もっとも、その中で同年に死去した美空ひばりの『川の流れのように』、前年からの2連覇を狙った光GENJIの『太陽がいっぱい』、年間ベスト10に3曲を送り込むなど一世を風靡したWinkの『淋しい熱帯魚』が三つ巴になり混戦になった。そんな中、当初マスコミの間では美空ひばりが有力視されたが、土壇場になってレコード大賞をテレビ中継するJNN系列の各テレビ局が持つ票が俄然Winkに流れ、Winkが大賞を受賞した。第27回(1985年)の中森明菜以降、5年連続でのアイドル歌手の大賞受賞であり演歌界や演歌ファンの不満が増大することになった。そのため、翌第32回(1990年)から演歌界の枠として「歌謡曲・演歌部門」が創設されることになった。ちなみに、女性アイドルの大賞受賞は第31回を最後に現在まで生まれておらず、女性アイドルデュオが大賞を受賞したのは第20回(1978年)のピンク・レディー以来11年ぶりの大賞受賞である。
第32回 - 第34回(1990 - 92年)[編集]
第32回(1990年)に設けられた「歌謡曲・演歌部門」大賞は堀内孝雄の『恋唄綴り』が受賞、第33回(1991年)に長らく無冠の帝王であった北島三郎が悲願の大賞を受賞した。また翌第34回(1992年)も「大物」大月みやこが受賞した。日本レコード大賞から離れてしまった演歌ファンの心を引き戻すために創設された「歌謡曲・演歌部門」ではあったが大物が容易に大賞を獲得できる弊害を早々に露呈してしまい、視聴者に明確な存在意義を示せないまま創設後3年で廃止されることになった。
第35回(1993年)[編集]
前年まで続いた「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」を再統一し、その年の最優秀楽曲1曲に大賞を贈るスタイルに戻した。この年はヒット曲が多く、CHAGE and ASKAの『YAH YAH YAH』やTHE 虎舞竜の『ロード」や井上陽水の『Make-up Shadow』などの名曲が多く世に出た。しかし、これらの曲を歌っていたアーティストの辞退などがあって結局オリコン年間101位だった香西かおりの『無言坂』(市川睦月作詩・玉置浩二作曲)が大賞受賞曲となり、「歌謡曲・演歌部門」が3年で廃止された翌年に歌謡曲が受賞することになった。
第36回(1994年)[編集]
この年は審査・授賞式共に空転したが、Mr.Childrenの代表曲でこの年の年間シングル売り上げ1位だった『innocent world』が受賞した。表面上は問題がないように思えるこの曲の受賞は、「審査委員が審査をストライキする」という異常事態によるものであった。これは前年の「香西受賞」で危機感を抱いたある大手芸能事務所がある歌手を受賞させるよう審査委員に圧力をかけ続けたため、これに嫌気が差した審査委員がこぞってMr.Childrenに投票したのである。さらにMr.Childrenがミュージック・ビデオ撮影を理由に授賞式を欠席したために生演奏が行われず、TBSの音楽番組『COUNT DOWN TV』の収録で同バンドが演奏した際の映像を流すのみという形となった。Mr.Childrenは、「自分達の楽曲が正当に評価された訳ではない」と受賞後も不信感を抱くことになる。その後、審査制度とノミネート方法は大きく変貌を遂げた。
第37回 - 第45回(1995 - 2003年)[編集]
大手レコード会社・エイベックスに所属する歌手が第41回(1999年)と第42回(2000年)を除いて大賞を受賞する状況になったため、「エイベックスの出来レース」という声も出た。その結果、業界、視聴者、双方から選考過程が不透明だという批判もあった。しかし、当時ブームだった小室ファミリーやエイベックス所属の歌手が積極的に参加したことで凋落の一途だったレコ大が息を吹き返したことは事実である。
第37回(1995年)の美山純子の最優秀新人賞受賞は、売上的にも知名度も圧倒的だった華原朋美を抑えてのことだった。美山は、1981年に加古川順子という名でレコードデビュー。その後、何度か改名を繰り返しつつ歌手活動を継続しており実質新人ではなかった上、オリコンに100位以内にも入ってなかったという。
そのような状況の中で美山が最優秀新人賞を受賞した背景には、もし華原が受賞すると大賞がTRFとなっていたので小室ファミリー独占となり、批判が出る状態が回避できないということと某審査員が美山受賞をごり押ししたことがあったと言われている。
その一方で、美山の楽曲『桃と林檎の物語』は日本作詩大賞で新人ながらも異例の大賞を受賞しており、受賞は順当という見方もある。
この疑惑の受賞にかかわらず美山はその後1曲しかオリコンで100位に入ることが出来ず、結局鳴かず飛ばずの傾向が続いたことから最終的に1997年ごろに引退した模様。
一方、華原は翌年にミリオン連発で一層飛躍したりその後善かれ悪しかれマスコミなどの話題になるというように、まるっきり皮肉な結果となった。
第40回(1998年)のglobeの受賞は売上枚数を見る限り最有力と見られたEvery Little ThingやL'Arc〜en〜Ciel、GLAY、SPEED(当時、レコード会社はトイズファクトリー。現在はエイベックス)を抑えての受賞だっただけに波紋を呼んだ。この年から、楽曲に授与という本来の目的より歌手に授与という傾向が強くなった。
第43回(2001年)から第45回(2003年)までは浜崎あゆみが史上初の3連覇を達成する一方で、浜崎以外の有力歌手が軒並み辞退するという事態に陥った。特に第45回(2003年)はSMAPの『世界に一つだけの花』が記録的な売り上げを残して大賞有力と囁かれていた。しかし、ノミネート段階で受賞を辞退した。「ナンバーワンよりオンリーワン。どの歌が優れているということはない」とのコメントはあったが、とりわけ平成に入ってから軒並み賞レースを辞退している彼らが所属しているジャニーズ事務所の方針に従ったとの見方が強い。
第46回(2004年)[編集]
8月に発生したエイベックスのお家騒動に責任を感じていたという浜崎がノミネートを事前に辞退した。なお、浜崎の辞退に関しては、主催者側が辞退した話を全く聞いておらず、ノミネート曲があったものの落選したとしたため、双方の「ノミネート」の認識に食い違いが起きる異例の事態となった。またTBSが制作に関わった映画『世界の中心で、愛をさけぶ』の主題歌『瞳をとじて』の平井堅も辞退した。シングル2曲が年間2位と5位に入り、アルバムも年間2位と総合的な売り上げで他を引き離したMr.Childrenが『Sign』(オリコン年間2位)で10年ぶりの大賞を受賞、今度は実際に出演した。出演の背景には、この曲がこの年TBSが放送した連続ドラマ『オレンジデイズ』の主題歌だったこと、主催者が10年前に起こった「内紛」をMr.Children側に謝罪したこと、主催者が桜井が所属する非営利組織「ap bank」を支持すること、さらに桜井が要求していた「受賞は今回限り」という条件を受け入れる約束をしたことなどが挙げられる。
第47回(2005年)[編集]
TBSの昼ドラマ『愛の劇場・コスメの魔法2』の主題歌だった倖田來未の『Butterfly』(オリコン年間売上85位)が受賞した。なお、この曲の売り上げ枚数は少なかったもののアルバムの高セールスや年間を通しての音楽業界への貢献度が高かったこと、TBSでのタイアップが評価されたことなどが大賞受賞理由と思われる。
また、倖田の『Butterfly』受賞は『ベストヒット歌謡祭』演歌歌謡曲部門グランプリと『日本有線大賞』の2冠の演歌歌手・氷川きよしの『初恋列車』(オリコン年間40位)、コブクロの『桜』など、有力候補を抑えた受賞となった。しかしながら、最優秀新人賞を倖田の後輩であるAAAが受賞したため、倖田の大賞受賞を含めると、エイベックス寡占状態を食い止めることができなかった。
ちなみに、プレゼンターとして小池百合子環境相(当時、大賞を発表)やライブドアの堀江貴文社長(当時、最優秀新人賞を発表)といった話題の人物が登場した。
さらに授賞式直前に審査委員長の阿子島たけしが「審査委員長をやめろ等」と怪文書を流されたあげくに謎の死を遂げる事件が起こったため、賞の透明性が改めて問われることになった。これが視聴率史上最低の10.0%となる一因になったと言われている。
阿子島たけし焼死事件[編集]
2005年12月13日、同年の大賞審査委員長で音楽評論家の阿子島たけしに向けて「業界関係者との金銭授受があった」「阿子島はレコ大委員長を辞めろ」などという怪文書が出回るようになる。
阿子島は怪文書について、「全く根も葉もないこととまで言わないが、事実関係を捻じ曲げている」「出した人間は分かっている。詳しいことは後日話す」とコメントしていた。しかし2005年12月13日早朝、神奈川県横浜市の自宅が全焼。当初遺体が見つからず行方不明扱いとなっていたが3日後、突如自宅敷地内から遺体となって発見された。14、15日とさほど広くもない自宅敷地内を多数の警官が捜索していたにも関わらず突如16日に遺体が発見されたことについて警察は「16日に初めて屋外を捜索し始めた」としている。阿子島夫妻は頻繁に連絡を取り合っていたというが25日には実家滞在中の妻に連絡はなかった。警察は出火原因は放火ではなく失火と断定。死因は焼死と判定された。司法解剖では煙を吸い込んでいない、つまり火事が発生する前に死亡したと思われるが警察は事件性はなしと判断した[6][7]。
「業界関係者との金銭授受があった」「阿子島は委員長を辞めろ」などという阿子島への怪文書が出回っていた事で、大賞の審査過程と事件の関連性が注目された。審査委員長が死亡したため三木たかし実行委員長を審査委員長代行として審査が行われ、TBS以外のJNN系列基幹4局(MBS・CBC・HBC・RKB)の代表が審査委員として加わった。授賞式の放送の最後に追悼のメッセージが放映された。また、音声はモノラルに切り替えた。
スポンサーについて[編集]
スポンサーセールスは1990年代初期まで大晦日が該当する曜日の19・20時台のレギュラースポンサー(例えば月曜日が大晦日に当たった場合19時台前半はライオン・YKK、19時台後半はブラザー→雪印乳業、20時台は松下電器・松下電工(現:パナソニック・パナソニック電工)が提供。水曜日が大晦日に当たった場合20時台は水曜夜8時枠連続刑事ドラマ→『わくわく動物ランド』に提供していたスポンサー各社(=江崎グリコ・牛乳石鹸・大正製薬・メナード化粧品・積水ハウス他1社)の提供)だったが、1995年頃以降は特定の企業がスポンサーでCMを流すケースが増えている(主に外資系レコード会社やエイベックスグループ・ソニーミュージックなど)一部電機メーカーや食品メーカーが年末年始の特別編成による休止振り替えでスポンサーにつくことが多い(1995年 - 1997年はスポンサーの中に牛乳石鹸共進社、2002年・04年は大正製薬、2003年 - 2005年はライオン、2005年はメナード化粧品も提供していた))。
2007年のスポンサーでは『さんまのSUPERからくりTV』から花王、伊藤園(以上60")、マツダ、生涯学習のユーキャン、クリナップ、小林製薬(以上30")、武田薬品(通常だと60"だがこのときは30")、『どうぶつ奇想天外!』から日産自動車(60")、サンスター、AEON、味の素、NTT東日本・NTT西日本、ロッテ(以上30")、「日曜劇場」から花王(90")といった通常番組の筆頭スポンサーがほぼ丸々入った。そのうちスポンサーでは昨年のスポンサーだった(例・ヤマザキナビスコ、日本グッドイヤー、KDDI(主にau中心)キリンビール、キリンビバレッジなど)のが数社あった。
2008年のスポンサーでは2007年と同様に該当曜日のスポンサーが殆どが提供し、ユニリーバ・ジャパンを筆頭に返り咲き・連続のスポンサーがあるが、新たにイー・モバイルなどのスポンサーが数社提供していた。しかし2010年代に入り先述の疑念が一層深まるにつれ、スポンサー数は減少傾向にある。
脚注[編集]
- ↑ ここでいう「レコード」とは「記録」という意味ではなく20世紀中盤から後半にかけて使われた音楽記録メディアのことである
- ↑ “2015年「日本レコード大賞」、“「三代目JSB」VS「AKB48」”といわれる理由”. TSUTAYA T-SITE NEWS. 2016年1月5日確認。
- ↑ a b “国民的番組『レコ大』の存在意義は視聴者に認められているか”. 産経ニュース. 2016年1月5日確認。
- ↑ 事実、『日本歌謡大賞』等のレコード大賞以外の賞レース番組は次々と終了し、コンサート形式に変更した事例(主に『FNS歌謡祭』、『ミュージックステーションスーパーライブ』)もある。
- ↑ 「日本レコード大賞」という賞は歌手ではなく楽曲に贈られる賞であるが、「最優秀新人賞」等は楽曲ではなく歌手に贈られる賞なので、外国曲でも問題なかったとも考えられる。
- ↑ 失踪レコ大委員長告発文書「金品を要求した」と非難 12日から連絡なし翌日には自宅が全焼 ZAKZAK 2005年12月15日
- ↑ 焼死体発見、レコ大委員長か…自宅焼け跡から逃げ遅れ?2階から転落か ZAKZAK 2005年12月16日
外部リンク[編集]
- 歴代レコード大賞一覧
- 活動〜日本レコード大賞〜 - 公益社団法人 日本作曲家協会
- 輝く!日本レコード大賞 - TBSテレビ