史的イエス
史的イエス(してきイエス)とは、キリスト教の開祖とされるナザレのイエスについて、キリスト教信仰の観点を排除し、史料批判など歴史学的な手法を用いて探究される歴史上の人物像のことである。
「史的イエス」問題の発生[編集]
「史的イエスの問題」は、20世紀ドイツにおける代表的な新約聖書学者ルドルフ・カール・ブルトマンが、1921年の『共観福音書伝承史』のなかで「原始キリスト教の信仰において本質的なことは、『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教(ケリュグマ)されたキリストなのであって、必ずしも『史実のイエス』ではない」という学説を唱えたことが嚆矢となって、聖書学だけではなく神学一般にとっても20世紀最大のテーマとなった[1]。このブルトマンの提言(学説)は、史料批判によって客観的な史実を打ちたてることができると考えていた歴史主義的な諸潮流、および、歴史主義に依拠して「史実のイエス」をみずからの信仰の拠り所として求めるにいたった「自由主義神学者」に対する手厳しい批判となった。しかし、そのいっぽうでこの学説は、原始キリスト教史家であるブルトマンみずからが各福音書に対して徹底的な史料批判をおこなって考察したうえで析出された結論でもあったのである[2]。
言い換えれば、『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』のいわゆる四福音書、また、ブルトマン学説発表後の1945年にエジプトで発見された『トマスによる福音書』のそれぞれの福音記者たち(すなわち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネおよびトマス)が史料として用いた伝承そのものに、伝承を形成してゆく目的として伝承者の信仰にもとづいたキリストの宣教がすでに内在していたということであり、逆言すれば、そもそも福音記者たちに「史的イエス」に関する興味はほとんどなかったということである[2]。
荒井献は、五福音書を相互に比較すると、各福音記者が等しく同一人物であるはずの「ナザレのイエス」について記しているにもかかわらず、それぞれの福音書に描写されるイエス像は互いに相当異なっており、全体として多様であることを指摘し[3]、その理由として、ひとつには各福音記者によって採用されたイエスに関する口碑伝承そのものが異なる場合もあることを掲げる反面、マタイとルカにみられるごとく、両者に共通のイエスの語録資料(いわゆる「Q資料」)に依拠しながらも、全体としては異なるイエスの言説を読み手に提示する場合さえあることを指摘している[3]。であるならば、イエス像の多様性というこの現象は、各福音記者における「史観と視座の設定点」の差異以外からは説明できないはずであり、その設定のありようは、究極的には各福音記者の信仰のあり方やその創造力の内実によって規定されているのではないかと荒井は提起している[1]。
ブルトマン学説において強調されるのは、福音記者たちは、かれらに先だつそれぞれの伝承を受け入れて、荒井も指摘するそれぞれに固有な立場から各福音書の著述に従事したのであるが、その際、かれらは伝承者の宣教目的をこそ前面に押し出しているという事実である。それゆえ、「史実のイエス」は「宣教のキリスト」の歴史的前提をなすことは間違いないことではあるものの、「史実のイエス」は決して「宣教のキリスト」を本質的に規定するものではない、ということになる[2]。
「史的イエスの問題」は、ブルトマン学派に属するドイツのエルンスト・ケーゼマン(Ernst Käsemann)が1950年代はじめにおこなった講演を契機として議論が活発化し、1960年代なかばすぎまで、主としてプロテスタント神学界における中心的テーマとして国際的規模での論争に発展した[4]。
「史的イエス」をめぐる議論の経緯[編集]
ブルトマン以前[編集]
上述のように、「史的イエス」を考察、さらには分析していくうえで最重要とされる史料に、「ナザレのイエス」の言行を収録した『新約聖書』収載の福音書がある。したがって、近代以降発展してきたイエスの実像に関する研究が、福音書に対する史料批判にもとづいていることには、特に注意しておかなければならない。
1835年、カール・ラハマン(Karl Lachmann)が、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のうち、最初に書かれたのは『マルコによる福音書』であるという「マルコ優先説」を提起するや、『マルコ福音書』の分析にもとづけばイエスの歴史的実像にたどり着けるという見方が当時の聖書学者のなかで有力となっていった。ハインリヒ・ホルツマン(Heinrich Holtzmann)はこの学説にもとづき、1886年、福音書は救い主(メシア)であるイエスが自己を啓示する過程を記述したものであるとの見解を発表した。
しかし、この見解はヴィリアム・ヴレーデ(William Wrede)が発表した「メシアの秘密」仮説の提唱によって深刻な打撃をこうむることになる。すなわち、ヴレーデは自著『福音書におけるメシアの秘密』(1901年)において、『マルコ福音書』のなかで、イエスが弟子や人びとに対し自分をメシアであることを言いふらすことを禁じる(秘密にする)命令をしているのは、イエス自身がそもそもメシア(キリスト)としての自覚を持っていなかったためであり、ホルツマンが注目するような記述は当時の教会神学が生みだしたものであると断じたのである。これに対してアルベルト・シュバイツァーは1906年から1913年にかけて『イエス伝研究史』を著わし、これまでのイエス研究そのものが研究者の思想的背景の単なる投影に過ぎなかったと主張して、イエスは終末論的世界観のなかに生きていたのであり、メシア(キリスト)としての自覚を持っていたという見解を表明した。
ブルトマン以後[編集]
1910年代末葉から1920年代初頭にかけて、すでに編集され福音書というかたちで示される個々のイエスの言葉や物語について、それぞれの編集の過程や歴史的な位置付けを明らかにしようとする「様式史研究(Formgeschichte)」の試みが、マルティン・ディベリウス(Martin Dibelius)や上述のルドルフ・カール・ブルトマンらの神学者によって始められた。この研究方法においては、イエス伝承の形成者としての原始教団は、固有の「文体」、「様式」、「文学類型」を生み出したと想定し、個々の伝承がどのようにして生まれ、どのように個々の福音書の現在みられるような位置に編集されるに至ったか、その歴史的経緯を明らかにすることを目的としている。したがって、物語のなかのどの言葉が編集のために福音記者が補った言葉(編集句)であるか特定することで伝承を洗い出す作業がなされ、「論争」、「奇跡行為」、「伝説」などの教団の「生活の座(Sitz im Leben)」のどこにその伝承が位置づけられるかを明らかにすることで、イエスの歴史的実像に関する諸伝承の成文化以前の歴史的価値を決定しようとしたのである。
ブルトマンに師事した上述のエルンスト・ケーゼマンもまた師同様、「宣教のキリスト」から出発した[5]。ケーゼマンはしかし、パウロが「宣教のキリスト」のなかに「書簡」という文学スタイルで神学的内容を盛りこんでいったのに対し、福音記者たちはどうして、同じ「宣教のキリスト」に「福音書」という文学スタイルを通して史的構成を試みたうえで彼らにとっての同時代に示したのかという問題提起をおこなっている[5]。それに対するケーゼマン自身の答えは以下のようなものであった。
ヨハネの場合は例外に属するが、福音記者マタイ・マルコ・ルカは、すでにイエスの語録伝承の担い手となった人びとの信仰のなかにみられる「霊的熱狂主義」と対決するために「福音書」という文学形式[6]を採用した。つまり、霊的熱狂主義者たちは、天に召された「キリスト」としてのイエスとかれら自身とを「霊的に」同一の境地に達しようと専心して、歴史を超越ないしは歴史性を捨象するという傾きが強かったのに対し、福音記者たちは、十字架刑で極限に達した「イエスの生」を描いていくことで、イエスの歴史性を確保しようとした。それに対し、パウロは霊的熱狂主義者との書簡の交換において、熱狂主義者の掲げる「栄光のキリスト」に対峙するため、「十字架のキリスト」としての「宣教のキリスト」を自らの立場として提示した[5]。
ケーゼマンに似た立場から、ブルトマン学派のなかでいちはやく「ナザレのイエス」を公表したのがギュンター・ボルンカム(Günther Bornkamm)であった[5]。ボルンカム著『ナザレのイエス』の初版は1956年、ドイツのシュトゥットガルトで公刊されている。
さて、ディベリウスやブルトマンによってはじめられた「様式史研究」をさらに発展させた新たな試みが、1960年、ハンス・コンツェルマン(Hans Conzelmann)らによって始められた。この研究を「編集史研究(Redaktionsgeschichte)」と呼び、それぞれの福音書がどのように編集されたか(編集句)を想定することで、それぞれの福音記者の思想的傾向や文書成立の歴史的背景による文書の特性、および編集方法の特異性が明らかになると主張し、それらの福音書ごとの特性を傍証として、歴史的なイエスの実像に迫る足がかりにしようとする。日本においても、同様の研究が荒井献、田川建三らによって進められている。
一方、1980年代以降、福音書の原資料として想定される「Q資料仮説」にもとづき、終末論をイエスの思想の核とは考えず、イエスをキュニコス派(犬儒学派)的な知恵の教師とみなすバートン・L・マックなどの研究者もあらわれ、一定の支持を集めている。
これらの議論の経緯からもわかるとおり、「史的イエス」の研究は、基本史料たる福音書そのものの歴史的な価値をどう評価するかに大きく左右されている。また同じ研究手法を採用しても、個々の語句の歴史的評価が研究者によって異なるため、研究者ごとに結論が大きく異なる場合が多い。さらに日本における編集史研究においては、Q資料の存在による「二資料仮説」を前提とした議論が主流であるのとは対照的に、欧米においては、『マルコ福音書』の先行性を否定したり、Q資料の存在そのものに強く反対する「史的イエス」研究も根強く存在していることには、特に注意を要する(Q資料および福音書の「共観福音書の問題」の節を参照)。
「史的イエス」の復元[編集]
復元の根拠となる資料[編集]
史的イエスを知るための史料は決して多くない。原始キリスト教からみて外部資料にあたるユダヤ教の文書やローマ帝国の歴史記録などの文献資料には、イエスの名が言及されている程度であり、内容的に独立した史料とするにはおよばない[7]。エジプトのナグ・ハマーディにおいて発見されたコプト語による初期グノーシス文書も全体としては単独の史料としての信頼性には疑問がもたれる。イエスの実在や事績に関しての史料・資料は、考古資料をのぞけば、伝聞や伝承をあつめた二次的なものが多く、結局「史的イエス」の解明には福音書、なかんずくマタイ、マルコ、ルカの三福音書が最も重要だということになる[7]。
- キリスト教『新約聖書』
- グノーシス主義 「グノーシス文書」
- ユダヤ教の古代文書
- ローマ帝国の記録(1世紀初頭でのユダヤに関する記録等)
- 同時代の歴史家の文書(フラウィウス・ヨセフスの歴史書等)
- 考古学的な資料
史料批判における諸問題[編集]
イエスの実在性については、確実な一次史料として信頼性をおけるものがきわめて少ないという史料上の問題がある。
キリスト教外部による史料[編集]
非キリスト教徒による一次史料は、現在に至るまで未発見のままである。
イエスの名前が初出するキリスト教外の文書では、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(18:63)やタキトゥスの『年代記』などのごく一部にイエスに関する記述があるが、前者は後代の加筆を疑われており、後者は同時代史料でないばかりか、キリスト教徒(「クレストス」を開祖とする宗教)に言及したものである。したがって、イエスの実在性の根拠とするには問題を含んでいる。
しかし、紀元後30年ころにローマ皇帝に対する反逆罪で磔刑に処せられた男のあったことについては、ローマやユダヤ側の史料によってもある程度裏づけられる[8]。また、十字架刑は、当時のローマ法で規定された刑罰であった。
キリスト教内部による史料[編集]
イエスの事績を記述するキリスト教文書(聖書)において、現在残されているイエスに言及する最古の史料は新約聖書内のパウロの真筆と想定される書簡(『パウロ書簡』)である。
しかし、これら残存するパウロの文書には、生前のイエスと直接会っていることをうかがわせる記述はなく、書簡の中でパウロが出会ったと証言しているのは「復活後のキリスト」である。また、パウロにおいて史的イエスの実像を記述した証言は、ほぼ皆無に近い。
『新約聖書』に含まれる、福音書やその他の書簡などの文書についても、イエスの弟子の名前が冠されているものの、イエスが刑死した後かなり年代が経過した1世紀後半以降に成立したと推定されており、これらの文書の筆者もイエスを直接には知らないと考えられている。したがって、『パウロ書簡』は、実在性を証明する一次史料ではない。しかしながら、パウロの真筆の手紙によって、イエスの弟子であるペトロや他の使徒たちの実在は疑いの余地がない。
もし、イエスが実在しないと仮定すれば、かれらが実際には存在していない自分たちの指導者を作り上げ、いかなる宗派のユダヤ教思想でも考えられないことに、その人物を「神の御子」と呼び、しかもローマ帝国によって「神の御子」が処刑されたうえに、さらに、その死後復活したという教えを説いてまわったということになる。かれらに何故そのような複雑で何重にもわたる虚構を捏造する必要があったのか、大きな疑問がのこる。
イエスの実在性にかかわる議論について[編集]
19世紀に行われた「史的イエス」を福音書の言行から復元する試みは、20世紀前半にかけて、聖書内に描かれているイエス像が現実性を欠くことや、各福音書や外典のイエス伝が、大部分で相互に矛盾するといったことを理由に、いったんはイエスの実在を否定する見解が生ずるまでに至った。しかし、今日、イエスに関する確実な一次史料を欠いているにもかかわらず、高い蓋然性をもってイエスの実在は広く認められている。
復元されたイエス像[編集]
イエスの生年[編集]
一般に、イエスの生年は紀元前7年 - 紀元前4年頃とされている。紀元前7年とみなす説を採っているのがエセルバート・シュタウファー(Ethelbert Stauffer)や弓削達であり、荒井献や八木誠一は紀元前4年説に立っている[9][10]。
これは、『マタイによる福音書』2章の、イエスがヘロデ大王の治世(紀元前37年 - 紀元前4年)の末期に生まれたという記述、および『ルカによる福音書』から推定されているものであるが、キリスト教以外の史料には該当の既述がないため、断定は困難である。
イエスの生地と家系[編集]
「キリストの降誕」も参照
伝統的には、イエスはユダヤの町ベツレヘムにおいて処女マリアから生まれたと信じられている。これは、『マタイによる福音書』1-2章および『ルカによる福音書』2章に拠っている。しかし、最も先行する福音書と考えられる『マルコによる福音書』も、さらにそれに先だつ時期に大部分が執筆されたと考えられる『パウロ書簡』も、あるいは福音書中最も年代の新しい『ヨハネによる福音書』もベツレヘムにおける処女降誕に関する記載がない。のみならず、『ヨハネ福音書』においては、イエスはガリラヤの出身であると記されており、他方では『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』のいずれにおいても、イエスがダヴィデ王の子孫であることは否定されている[11]。
『ルカ福音書』によれば、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(紀元前27年-紀元後14年)が、全世界の戸籍・人口調査を命令したが、それはシリア総督がプブリウス・スルピシウス・キリニウスだったときのことで、人びとは登録のため自分の故郷へ戻ったとされる。マリアの夫ヨセフはダヴィデ王の流れを汲む家系だったので、マリアをともないガリラヤの町ナザレからダヴィデの町、ユダヤのベツレヘムへおもむいた。そのとき、マリアからイエスが生まれたとしている[12]。
にもかかわらず、荒井献によれば、『マルコ福音書』『マタイ福音書』のみならず『ルカ福音書』においても、イエスが「人の子」または「主」として超地上的な存在として信じられており、イエスが「キリスト」であるとしても、単なる地上の王であるダヴィデのような世俗的な王者ではないという主張が認められる、という[11]。
すなわち、『マタイ福音書』や『ルカ福音書』においては、イエスの出生について、イエスが「ダヴィデの子」としてベツレヘムに生まれたという伝承と、その一方で超地上的存在として処女から降誕したという伝承が重なっているのであり、これはたがいに矛盾する。荒井が指摘するように、もしもイエスが処女から生まれたとするなら、マリアだけではなく、イエスとも血統的には無関係なはずのヨセフの系図をダヴィデにまで遡行させる必要はないのである[11]。イエスがダヴィデに連なり、ベツレヘムで生まれたという伝承は、メシア(キリスト)はダヴィデの家系から出て、ベツレヘムに生まれるという預言から逆につくられた伝承である可能性がある[12]。なぜなら、イエスは誕生物語以外の場面では一貫して「ナザレ人」「ナザレ出身者」の術語が用いられており、これはすべての福音書において一致しているからである[12][13]。このようにみた場合、イエスの出身地はガリラヤのナザレとみるのが妥当である。
イエスの十字架での死[編集]
福音書から、ローマ皇帝ティベリウス治下でユダヤ属州の総督だったポンティウス・ピラトゥスのもとで、十字架刑に処されたと考えられている。
イエスの死が十字架刑であることは、福音書に先行する『パウロの書簡』にも記されており、イエスの実在性とともに蓋然性が高いとされる。なお、十字架の刑は、当時のローマ法の規定によるものであった。
イエスの没年は、
- ポンティウス・ピラトゥスの総督在任期間が(26-36年)であること、
- 既述のとおりイエスの生年の下限が紀元前4年と考えられること、
- イエスが30歳ごろに宣教を始めたというルカによる福音書の記述(3章23節)
などから判断して、おおよそ紀元後30年前後という想定は学界ではおおむね一致している。シュタウファー・弓削・土井正興は紀元後32年とみなしているが、紀元後31年説もあり、荒井は紀元後30年説を採る[9]。八木は紀元後32年か紀元後31年としている[10]。
いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、イエスが宣教を行った期間は、1年か2年、長くても3年ほどという非常に短い期間だったことになる。
イエスの名[編集]
「イエス」正確には「イェースース」᾿Ιησοῦς (Iêsoũs)は、ヘブライ語の「イェーシュア」のギリシア語読みである。「イェーシュア」は「ヨシュア」ישוע (Yeshua)(正確には「イェホーシューア」)の短縮形であり、原義は「ヤハウェ(神)は救い」であって、ユダヤ人のあいだでは広汎に採用されていたごく一般的な人名である[14]。
「史的イエス」の生涯[編集]
荒井献は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の文献学的な比較検討により、イエスの生涯には少なくとも、
- バプテスマのヨハネの弟子
- ガリラヤにおける宣教
- エルサレムにおける処刑
の3つの段階があったと推定できる、としている[14]。
日本の新約聖書学者で神学者の八木誠一は、「イエスの生涯の外的な出来事」について、「ほぼ確実」とみられることとして、以下のようにまとめている。それによれば、
イエスは、紀元前1世紀の終わりころ、パレスティナのガリラヤにあるナザレの町(現在のイスラエル北部)において、父は大工のヨセフ、母はマリアを両親として生まれた。弟や妹もいた。紀元20年代後半に洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受け、やがてヨハネ教団から独立して伝道をはじめた。神の支配を告知して「神の国」のおとずれを予告し、人は律法ではなく、直接、神の意志をわきまえるべきであり、神の意志にしたがって行動し、そして生きるべきことを人びとに訴えた。このことは、律法の文言を至上の存在としてもっぱらこれへの服従を説く律法主義の考えを、神の意志の事実に反するものとして批判することでもあったので、「ファリサイ派」と呼ばれる当時の主流をなす律法学者の立場と衝突した。いっぽうイエスは、イエスの言葉を率直に受容しやすい状況にあった当時の下層階級の無学な人びととの親交を深め、むしろ彼らこそ「神の国」に入るべき人びとだと説いたので、下層階級の人びとからは広く支持されたものの、支配階級からは危険視されることとなった。わずかな弟子たちを連れてガリラヤでの巡回伝道をおこない、紀元30年代の初頭、その年の春にエルサレムにのぼり、エルサレム神殿での営みを批判したため「秩序の攻撃者」とみなされ、ローマ帝国下のユダヤ州当局より「過越(すぎこし)の祭」の前に逮捕された。そしてローマ皇帝に対する叛乱の首謀者という罪名を負わされ十字架刑に処せられた[10]。
というものである。
ちなみに、イエスの数人の弟妹のうち実弟といわれるヤコブ(義人ヤコブ)は、キリスト教会の中心的指導者として実際に活動している[15]。
イエスとヨハネ[編集]
荒井献は、イエスの生涯において、ガリラヤでの宣教に先だつ時期にバプテスマのヨハネのグループで活動していたことを重視し、2人の行動上における相違点を整理して次の3点が際だった違いであると指摘している[14]。
- ヨハネのグループは、「悔い改め」[16]にふさわしい生活形態として世俗から隔絶した一種の禁欲生活共同体を形成し、ヨハネその人はラクダの毛衣を着てイナゴと野蜜を食して「荒野」での洗礼活動をおこなっていたが、イエスはむしろ世俗世界に入り込んできわめて自由にふるまい、人びとには洗礼を授けず、断食も勧めなかった。『新約聖書』には、「大飯食いの呑み助」と記され[17]、結婚を否定せず[18]、衣服も上等であったらしい[19]。要するに、イエスその人は決して禁欲主義ではなかった[20]。
- ヨハネが「神の国」の接近にもとづいて人びとに「悔い改め」[16]を迫ったのに対し、イエスは「神の国」がすでに実現されつつつあると人びとに告知し、人びとがみずから、あえて社会的・民族的・経済的、場合によっては倫理的にさえも「弱き者」の位置に立とうとするときに立ち現れるものとして「神の国」を説いた。
- イエスにのみ多くの奇跡的な逸話が伝承されている。これについて荒井は、イエスには実際に病気を治癒する能力があったのかもしれないと指摘している[14]。ただしそれが、当時の「奇跡物語」という文学形式のなかで高められ、「キリスト(メシア)」あるいは「神の御子」と見なされるべき超人的な力として「宣教のキリスト」に利用されたことも確かな事実であるとしている[14]。
イエス当時のユダヤの支配者とりわけ政治的・宗教的なエリートであったサドカイ派やファリサイ派の人びとは、かれらの生活の価値基準を、かれらが神より授けられたと信ずる律法(「伝達のことば」)に置いていたのであり、かれらによれば、人が神の意志を知ることができるのは律法によってのみであって、したがって、律法を守って倫理的に清く正しい生活をしてきた人びとこそが、終末の際、その功績によって「神の国」に入れられ、律法を守らない者は「神の国」から閉め出されると堅く信じていた[14][21]。しかし、ヨハネは、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは、貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを差別し、穢らわしいものとして蔑む心のありようそのものを「罪」と考えたのであり、過去の基準にではなく将来の基準にこそ転換すべきことを主張した。そして、「神の国」が近づいたことを基準にするのであれば、律法を守りえる者も守りえない者も、よもや同一の地平に立たざるをえないことを訴えたのである[14]。これによりヨハネは、従来の価値基準を転換する「回心」としての「悔い改め」[16]を説き、「荒野での洗礼活動」をはじめたのであった。
「神の国」の真の到来は、律法を遵守して生活してきたという過去を誇る者がむしろ神による審判の対象となり、律法を守ろうとしても守りえない者がかえって神による救いの対象となりうるという逆説を生じせしめるのであり、ヨハネはそこにこそ「悔い改め」[16]が求められ、また、それにふさわしい倫理的・禁欲的な生活上の実践が求められているとする[14]。こうしたヨハネの思想に共鳴し、かれの洗礼活動に参加した人びとのなかにイエスやペトロがいた。そしてイエスは、「悔い改め」の思想をいっそう徹底することによってヨハネの禁欲主義的傾向から脱却していく。ヨハネ思想の批判的継承者となったイエスは、こうしてヨハネの教団を離れ、ガリラヤへの宣教へおもむいた。
「貧しき者は幸いである」[22]、「取税人や遊女は汝らよりも先に神の国に入る」[23]などの福音(イエスのことば)に示されるように、イエスは、人間がみずからの民族的・社会的・経済的・倫理的な有能感に立ち、自己を中心に他者の価値を審断しようという心持ちを批判し、人がそうした態度を捨てて、神への信仰によってむしろ自己を相対化し、自身をあえて弱者の側に立つと決意するならば、そこに「神の国」は実現されつつあると唱えた[14]。
そして、イエスは当時政治的・宗教的指導者によって「罪人」ないしは「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)として蔑まれ、不浄視され、法によって交わることを禁じられていた身体障害者や病人、とりわけハンセン病患者や精神病患者と法を犯しても親交をむすび、みずからこうした弱者、被差別者たちの一員となることによって傷害や病気を癒そうとした[24]。イエスの生涯に多くの奇跡物語の伝承がともなっているのは、まさに、このためであろうと考えられる[14]。
革命家イエス[編集]
アメリカ合衆国の歴史家で雑誌編集者でもあったジョエル・カーマイケル(Joel Carmichael)は、1963年に発表した"The Death of Jesus " (邦題『キリストはなぜ殺されたのか』。西義之訳、読売新聞社刊。1972年) において、イエスはみずから「ユダヤ人の王」としてローマの支配体制に抵抗し、最終的には武力革命の興起を試みた結果、当時のアンチローマ・ラディカリストである「ゼーロータイ」(熱心党)の1人として、ローマ帝国の派遣したユダヤ総督によって磔刑に処せられた、という解釈を施している[25]。
このように、イエスを政治的文脈でとらえようとする著作は、歴史家のイエス研究のなかからあらわれてくる。
イギリスの宗教史研究者S. G. F.ブランドン(S. G. F. Brandon)は1967年に"Jesus and the Zealots , A study of the political Factor in Premitive Christianity "(邦題『イエスとゼーロータイ — 原始キリスト教における政治的要素に関する研究』)を著し、同じころ、日本の西洋史学者土井正興は『イエス・キリスト — その歴史的追究』(三一書房、1966年)を著している。土井のイエス像は、当時、不浄なものとして差別され、虐げられていた「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)と共に立ち、かれらを宗教的に救済しようとするいっぽうで、ゼーロータイ的な政治革命への志向性をも有し、その両者を統合しようとするが、有効な革命理論の定立と行動の組織化に破綻を来したため、イエスはみずからの運動に挫折した、というものである[26]。
歴史家によるイエス研究については、上述した聖書学者たちによる史料批判の成果が一顧だにされない傾向について批判があり[25]、とくに解釈における革命家的側面の強調については、ひろくみて「1960年代現象」のひとつではなかったかとの見解もある[26]。これら「革命家イエス」に対する、聖書学者による、より強固な反論としては、1970年のオスカル・クルマン(Oscar Cullmann)の"Jesus und die Revolutionären seiner Zeit " (邦題『イエスと当時の革命家たち』。川村輝典訳、日本基督教団出版局刊。1972年)がある。クルマンによれば、イエスは「ゼーロータイ」と称された当時の革命家たちよりもむしろ革命的であった、何となれば、イエスは「神の国」建設とその手段としての政治的行動計画さえ拒否して人びとの心の革命(「悔い改め」)をこそ問題にしたからなのであった[27]。
現代の主要な研究方法論[編集]
ルドルフ・カール・ブルトマン[編集]
ブルトマンは多くの点でカール・バルトとは対立する新約聖書学者であるが、弁証法神学運動の初期においては、バルトの陣営に立っていた[28]。やがて、バルトとは異なり、新約聖書の徹底したクリティカルな研究に進み、1921年の『共観福音書伝承史』では、マタイ、マルコ、ルカの3福音書が複数の多様な伝承資料から成るものとして分析し、当時すでに旧約聖書学において用いられていた様式史批判の手法を用いて、各資料で伝えられてきた「生活の座」がイエスの死後発展した原始キリスト教の信仰と祭儀にあることを明らかにした。これによって、福音書は歴史報告ではないことを明証するとともに、現在残されている福音書から「史的イエス」そのものの実際の姿を再現することは歴史学的には困難であり、新約聖書の本来の性格はむしろイエスをキリストとして伝えるケリュグマ(宣教)にあるという結論を導き、当時、歴史主義に大きく依拠していた自由主義神学を批判した。
第二次世界大戦後は、『新約聖書』にあらわれた思考そのものが、全体として神話論的性格を濃厚に有するものであるとして、その「非神話化」を提唱した。ただし、「非神話化」とは神話的部分を削除しようということではなく、全体として神話論的につらぬかれた聖書の告知が内包するところの「実存理解」を学的に解明しようということであり[28]、この点においては、ドイツの実存主義哲学者マルティン・ハイデッガーの影響を受けている。
ブルトマンによれば、「イエスの宣教」はキリスト教成立の前提となる一条件にすぎないのであり[4]、その一方で、ブルトマンの考えるキリスト教の定義とは「イエスが説いた宗教」ではなく、「イエスをキリストであると告白する宗教」なのである[29]。
フックス、ブラウン、ロビンソン[編集]
ドイツのエルンスト・フックス(Ernst Fuchs)は"Zur Frage nach dem historischen Jesus"(邦題「史的イエスの問題によせて」,"Gesammelt Aufsätze Ⅱ"所収、1960年)は「宣教のキリスト」と「史的イエス」の対応関係を、両者の実存的な「振舞」のなかに確かめようとしている[5]。
また、ドイツの神学者ヘルベルト・ブラウン(Herbert Braun)やアメリカ合衆国の神学者ジェームズ・M. ロビンソン(James M. Robinson)も、やはり、「宣教のキリスト」と「史的イエス」とを、両者の「実存理解」においてとらえようとする (H. ブラウン"Jesus, Der Mann ans Nazareth und seine Zeit.(邦題『イエス — ナザレの人とその時代』、1969年)、および、J. M. ロビンソン"Historisher Jesus und kerygmatischer Christus"(邦題『歴史のイエスと宣教のキリスト』、1960年)[5]。
これらの見解は、いずれもかつてブルトマンが新約聖書の解釈方法としてハイデッガーより援用した実存論的解釈を「史的イエス」にまで拡大して得られた理解をもとにしていると考えられる[30]。
エルンスト・ケーゼマン[編集]
ドイツのエルンスト・ケーゼマンは、福音記者たちは、十字架刑で極限に達した「イエスの生」を描くことで、イエスの歴史性を確保しようとした(ただし、ヨハネをのぞく)のに対し、他の戦線にあったパウロは、霊的熱狂主義者との書簡の交換において、熱狂主義者の掲げる「栄光のキリスト」に対峙するため、「十字架のキリスト」としての「宣教のキリスト」を打ち出したものであると主張した。ケーゼマンの問題意識にしたがうなら、原始キリスト教団の人びとにおける「宣教のキリスト」は、かれらがイエスの生と死の「事実性」のなかに救いの意味を感得した限りにおいて、それと「史的イエス」とは時間的に接続し、本質的に双方はたがいに対応関係にあることとなる[5]。なお、1950年代初頭のケーゼマンの講演をきっかけとして「史的イエス」にかかわる議論が活発化し、50年代から60年代にかけては神学界における国際的な話題の中心となった[4]。
八木誠一[編集]
ケーゼマンに学んだ八木誠一は、「神の国」にじかに接して生きたイエスその人の実存理解は、「キリスト」に遭遇して生きた原始キリスト教団の人びとのうちに彼らの「復活信仰」を通じて間接的に伝えられたと説く[30]。この点では、八木はケーゼマンよりむしろ実存主義の影響を受けたヘルベルト・ブラウンやJ. M. ロビンソンの立場に近いといえる[30]。ただし八木は、人間実存の根底となる部分について、ケーゼマンの指摘した「事実性」に信仰の内実を委ねることは、むしろ歴史の一部を過度に絶対化する懸念がもたれるとして、そこにみられる歴史主義への傾きを批判している。八木によれば、人間実存の根底は、人間に対して歴史を越えながら人間実存をそのうちに生起せしめる「統合への規定」としてはたらくのであって、これは本来、党派的ないし宗派的なものではなくて普遍的なものである。したがって、キリスト者のみならず、たとえば仏教者もまた知っていたはずであるとして、宗教の本質をそこにみようとする。八木は、イエスという人物を「統合への規定」「人間の根源的な規定の存在と働き」に即して生きたひとりの人間の例としてとらえるのである[30][31]。
ブルトマン学派に批判的な諸学者[編集]
ドイツ以外のヨーロッパ大陸諸国や英語圏の新約聖書学者たちは、ブルトマン学派の学績やそのイエスの位置づけに対し、福音書の伝承批判の部分をのぞけば、否定的見解を示す場合が多い[32]。ただし、アメリカのJ. M. ロビンソン(先述)とフランスのエティエンヌ・トロクメ(Étienne Trocmé)は例外である。
ドイツにおいても、ヨルク・イェレミアス(Jörg Jeremias)は、"Die Gleichnisse Jesu"(邦題『イエスの譬え』、1966年)において、福音書のなかのイエスのことば、とくに「たとえ話」の伝承批判によって、イエスの「語られたままのことば」を抽出し、これをむしろ基準として福音記者のイエス像・イエス理解に批判を加えている[32]。
エセルバート・シュタウファーは、イェレミアスとほぼ同様の手法によって取り出された「真のイエスのことば」のみならず、当時のユダヤ文献との照合によってイエスの業(処女降誕・奇跡行為・復活)にその歴史的信憑性を認め、これらイエスの業を『ヨハネによる福音書』における人物伝的枠組のなかにおさめてイエスの原像を復元し、さらにこれを「すべてのものの基準」に設定して、福音記者だけではなくパウロの「宣教のキリスト」に対しても批判を加えている[32]。
荒井献[編集]
シュタウファーに師事した荒井献は、イエス自身が決して「最下層の庶民」に属していないことを明らかにしながら[33]、かれの思想と行動は、徹頭徹尾この「庶民」との連帯をめざすものであったとし[34]、イエスを革命家と把握しようとする歴史家たち、および、それに対してイエスをもっぱら精神の変革者と把握する聖書学者たちは、いずれも政治と宗教とを互いに異なった領域として分離する近代的思考の枠組みから自由ではないと批判して[35]、「庶民」に視座を設定することによって「史的イエス」の実像に接近しようとする。すなわち荒井は、厳格な史料批判によってイエス伝承の古層にせまり、その伝承の担い手であったことが確実な庶民層に視点を置くことで、イエスの振る舞いを西洋古代史の歴史的文脈のなかでとらえ、位置づけようと試みた[34][35]。その結果、イエス受難伝承の最古層においては、のちに、イエスを「神の子」としてとらえる機縁となった「復活信仰」は未だ明瞭なかたちでは立ち現れていなかったことを論証した[36]。
田川建三[編集]
ブルトマンに批判的なフランスの聖書学界のなかでは最もブルトマンに近いエティエンヌ・トロクメに師事した田川建三は、日本に帰国後、牧師でありながら日本共産党へ入党宣言をした赤岩栄と出会い、大学闘争を経験し、「造反教員」として国際基督教大学から追放されている。このような特異な経験と田川独自の新約聖書学、およびそのマルクス研究によって、既存のキリスト教なかんずくパウロの思想のなかに「現実と観念の逆転」を指摘し、キリスト信仰そのものの止揚をうったえた[37]。田川は、イエスの生きた時代史と神観、律法観、終末観等の各論とのあいだに相互関係をほとんど示さない神学を批判して、イエスの言葉の神学的ないし実存論的な解釈では、イエスを正しく歴史のなかに位置づけることはできないと説き、また、ペトロを中心にエルサレムの地に形成されつつつあった原始キリスト教団の主流に対し、辺境ガリラヤに生きる民衆の立場から批判を加える作業として「福音書」を編んだとしてマルコを高く評価し、イエスの言葉伝承を、奇跡物語伝承を仲立ちとしてイエスを古代の歴史的文脈のなかへ取り戻すことによって、「逆説的反抗者」として生きたイエスという男の「生と死の再現」を試みたのである[38]。
脚注[編集]
- ↑ a b 荒井(1974)p.6
- ↑ a b c 荒井(1974)p.7
- ↑ a b 荒井(1974)p.5
- ↑ a b c 八木(1977)p.177
- ↑ a b c d e f g 荒井(1974)p.8
- ↑ 荒井献は、「福音書」を今日の文学類型にあてはめるならば、「歴史記述」ではなく、むしろヘロドトスの『歴史』や日本中古の『大鏡』がそうであるという意味で「歴史小説」に近いとしている。荒井(1974)p.6
- ↑ a b 八木(1977)p.13-14
- ↑ 荒井(1974)p.187
- ↑ a b 荒井(1974)p.25-26
- ↑ a b c 八木(1977)p.21-22
- ↑ a b c 荒井(1974)p.26
- ↑ a b c 八木(1968)p.84-85
- ↑ 荒井(1974)p.27
- ↑ a b c d e f g h i j 荒井(1988)p.110-111
- ↑ 新井(1976)p.189
- ↑ a b c d ヨハネのいう「悔い改め」とは道徳的な反省・懺悔という意味ではなく、従来の価値基準を180°転換する、文字通りの「回心」を意味していた。荒井(1988)p.110
- ↑ 『マタイによる福音書』11・19
- ↑ 『マルコによる福音書』10・2-9
- ↑ 『ヨハネによる福音書』19・23-24
- ↑ 八木(1968)p.128
- ↑ 八木(1977)p.61
- ↑ 『ルカによる福音書』6・20、『マタイによる福音書』5・3
- ↑ 『マタイによる福音書』21・31
- ↑ 『マルコによる福音書』3・28
- ↑ a b 荒井(1974)p.21-22
- ↑ a b 荒井(1974)p.22-23
- ↑ 荒井(1974)p.23
- ↑ a b 八木(1977)p.175
- ↑ 八木(1977)p.176
- ↑ a b c d 荒井(1974)p.9
- ↑ 八木(1968)p.196
- ↑ a b c 荒井(1974)p.10
- ↑ 荒井(1974)p.45,p.62
- ↑ a b 荒井(1974)p.4
- ↑ a b 荒井(1974)p.24
- ↑ 荒井(1974)p.191-192,p.208
- ↑ 荒井(1974)p.11
- ↑ 荒井(1974)p.12
他の観点からみたイエス像[編集]
- 宗教的指導者としてのイエスについては、「イエス・キリスト」を、
- 歴史的観点からみた信仰の対象としてのイエス像とその歴史的受容は、「新約聖書とイエスの歴史的受容」を、
- 信仰の対象として、いかに信じられ、描写されてきたかは、「救世主イエス・キリスト」を、
- 歴史上、実在したイエスの生涯と思想については、「ナザレのイエス」を、
- 神智学の大師(マスター)としてのイエスについては、「イエス大師」を、
それぞれ参照。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- アルベルト・シュヴァイツアー『わが生活と思想より』竹山道雄訳、白水社、1959年、37-62頁「四:聖餐研究とイエス伝」「五:大学教授、イエス伝研究史」「六:史実のイエスと現代キリスト教」
- ギュンター・ボルンカム『ナザレのイエス』善野碩之助訳、新教出版社、1961年、299-316頁「補説」
- 田川建三『原始キリスト教史の一断面 福音書文学の成立』勁草書房、1968年、8-23頁「序論第二章 方法論」
- 八木誠一『イエス——人と思想7』清水書院<センチュリー・ブックス>、1968年1月。ISBN 4389410075
- 荒井献『イエスとその時代』岩波書店<岩波新書>、1974年10月。
- 新井智『聖書 その歴史的事実』日本放送出版協会<NHKブックス>、1976年4月。
- 八木誠一『イエスと現代』日本放送出版協会<NHKブックス>、1977年2月。
- ルドルフ・ブルトマン『共観福音書伝承史 I』加山宏路訳、新教出版社、1983年、7-16頁「課題と方法」
- 荒井献「イエス・キリスト」『世界大百科事典 第2(アラネ——イワ)』平凡社、1988年。ISBN 4-58-202700-8
- 大貫隆、佐藤研編『イエス研究史―—古代から現代まで』日本基督教団出版局、ISBN 978-4818403215