読売新聞
読売新聞(よみうりしんぶん、題号は讀賣新聞)は、日本の日刊新聞である。発行部数は1,000万部を記録し、日本はもとより、世界最大である。
概要[編集]
読売新聞グループ本社傘下の東京本社(東京都千代田区)と大阪本社(大阪市北区)および西部本社(福岡市中央区)の地域3本社と東京本社傘下の北海道・北陸・中部の3支社により発行されている。
日本の三大全国紙とされているが、全国紙化したのは戦後で、大阪進出までは東日本のブロック紙然の状態だった。
東京、大阪本社では、大手新聞系では唯一の英字紙である「The Japan News」も発行している。
沿革[編集]
1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門の「日就社」により、「讀賣新聞」の第1号が創刊。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により経営が悪化するが、警視庁職員の正力松太郎が社長に就任してから、経営の改革が進められ、新聞業界では史上初となるラジオ版(番組表の元祖)の掲載や、読売ジャイアンツの前身で、現存12球団では日本最古[注 1]となるプロ野球球団「大日本東京野球倶楽部」を設立するなどの改革を行った。
戦後、新メディアとしての民間放送局に注目して傘下に日本テレビ放送網を設立。並行して、正力の命を受けた務臺光雄によって1952年(昭和27年)11月25日、「大阪讀賣新聞」の題号で大阪市に進出[注 2]。大阪に設立した読売テレビ放送との連携で、東日本のブロック紙から全国紙へ大きく飛躍する。次いで、1960年に正力の出身地に隣接する高岡市に北陸支社を設け、全国紙で唯一の北陸現地印刷を行った[注 3]。
「大阪の次は九州」の正力の意向で、1964年(昭和39年)9月23日、北九州市に「西部本社」を設立[注 4]し、九州地方に進出した[注 5]。
正力松太郎死後、九州より先に名古屋進出の意向を持っていた務臺が地産総帥の竹井博友と連携して、中部読売新聞社を創設。中日切り崩しを狙い「中部読売新聞」、「報知スポーツ」を廉売したが上手くいかず、1988年本体と合併して「中部本社」になった[注 6]が、2002年に東京本社傘下の中部支社となった。さらに2004年、西部本社が福岡市に移転した。
特徴[編集]
紙面の特徴は、一般大衆向けの情報・話題に特化しており、論調は中道右派・新自由主義寄りで、親米保守である。なお、読売新聞と論調が似ている新聞には産経新聞が挙げられる。
スポーツ面は、子会社である読売ジャイアンツ関連の記事が他紙よりも最も多い。
発行本社[編集]
- 株式会社 読売新聞東京本社
- 東京都千代田区大手町1-7-1
- 読売新聞北海道支社
- 北海道札幌市中央区北4条西4-1
- 読売新聞北陸支社
- 富山県高岡市下関町4-5
- 読売新聞中部支社
- 愛知県名古屋市中区栄1-2-1
- 株式会社 読売新聞大阪本社
- 大阪府大阪市北区野崎町5-9
- 株式会社 読売新聞西部本社
- 福岡県福岡市中央区赤坂1-16-5
関連項目[編集]
脚注[編集]
- 注
- 出典