信仰
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マジで断言しよう。信仰(しんこう、英:Faith)とは、宗教ではないっ!!!
概要[編集]
侵攻でも新港でも進行でも親交でもない。
自分の魂の奥底にある“なにか”の正体を見極めようとする行為こそが信仰である。べつにインドに「自分探しの旅」に往こうがチベットに行こうが「お好きにどうぞ」なのだが、それは「自分から逃げていないか?」という意味で信仰と謂えるかどうかという話である。
ユダヤ教やイエズス教(キリスト教)では[編集]
口語訳だと[編集]
- 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである[1]。
電網訳だと[編集]
- 信仰とは、望んでいる事柄についての保証であり、見ていない事柄についての証明です[2]。
新改訳だと[編集]
- 信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです[3]。
新共同訳だと[編集]
- 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
新世界訳だと[編集]
- 信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実態についての明白な論証です[4]。
- 信仰とは、望んでいる事柄が実現するという確信であり、目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていることです[5]。
- Faith is the assured expectation of what is hoped for, the evident demonstration of realities that are not seen[6].
In the case of Bible (King James)[編集]
- Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen[7].
とかいうことになっており、だいたい腰が入っていない。「宗教団体なんてこの程度のもの」と言わざるを得ない。
結論[編集]
- 信仰の定義が揺らいでいる事に信仰が持てる。
- 案外断言しない。「目に見えないものを確信させるもの」の方が含みがあって意味が分かる気がする[8]。
- でもやっぱり一言で言うと「証拠」が妥当な気がする[9]。
そういった「迷い」も含めて信仰である。迷妄を怖れてはならない。自分の魂と真摯に向きあうこと。それが信仰である。魂は確実に自分の中にあるのだから、とデカルトも『方法序説』で述べている。
なんだかんだ言っても、ヤハウェが「光あれ」って言って「自分」がいるんだから、「自分の中に神から授かった燈火(ともしび)がある」のだから、迷妄を取り払ってそこを目指すのが信仰ではないのか。違うというなら反証せよ。「原初(はじめ)にロゴス(論理/言葉)ありき」と聖書に書いてある。
脚注[編集]
- ↑ “ヘブル人への手紙(口語訳)11章1節”. ウィキソース (2016年5月6日). 2019年6月3日確認。
- ↑ “ヘブライ人への手紙(電網訳)11章1節”. ウィキソース (2012年7月9日). 2019年6月3日確認。
- ↑ 昭和53年版 新改訳聖書のヘブル人への手紙 11章1節
- ↑ 1985年版 新世界訳聖書のヘブライ人への手紙 11章1節
- ↑ 2019年版 新世界訳聖書のヘブライ人のクリスチャンへの手紙 11章1節
- ↑ 英語の新世界訳聖書のヘブライ人への手紙 11章1節(いつの版かは不明)
- ↑ “Hebrews11:1(King_James)”. Wikisource (2019年3月9日). 2019年6月3日確認。
- ↑ ※個人の感想です。※だってあんたには「思っている自分がある」んだろ? それは目には見えないけど、それを確信していないのか?
- ↑ ※個人の感想です。※だってあんたには「思っている自分がある」んだろ? それは証拠として認めないのか?
関連項目[編集]
- 信じたい
- 論より証拠
- 信仰は儚き人間の為に
- エビデンス
- プログラマが知るべき97のこと/見えないものを見えるように - ウィキソース
- 見えないものを見ようとして~♪ - Youtube動画